様々な場面で、大丈夫という保証を
してもらわなければ踏み出せない
という方も多く、その気持ちも
良くわかります。
ただ、これは二つの面から
その在り方のままだと、
シフトも飛躍も解放もないだろう
と思います。
その理由の一つは、
誰かに保証してもらったところで、
その保証すら確かなものではないし、
それが本当に信頼できるのかどうかを
最終的に判断するのは自分です。
その最終責任を負っているということに
保証を求める人は自覚があるかな、
と思うのです。
ビジネスの場面で法的拘束力のある
保証を契約できっちり取るというのは
話は別ですが、
誰かが言ったから大丈夫、と思って
行動する人は、どこか他人軸
になっているように思います。
本当に自分軸で生きている人なら、
誰かの言う保証などそもそも
求めるような在り方は
していないでしょう。
自分の知恵や知識、直感を総動員して
疑問点があればクリアにする行動を
するでしょうし、その上で、
自分の責任で決断するでしょう。
そして、もう一つの側面も
その在り方の延長線上にあるのですが、
人生には、リスク分散では
どうしても越えて行けない
場面もあるということです。
大きく人生の道を転換するとき、
古い在り方を残したまま、
次の新しい道が開けてくることは
ありません。
徐々に古いやり方から新しいそれに
移行できれば良いのかもしれませんが、
時に人生は、すっかり古いものを手放し、
空っぽになったところからでないと
新しいものがやってこないというときも
あるのです。
そうなると、古きは去った。けれども
まだ何もやって来ていない、という
空白期間が生じます。
その空白が、たまらなく恐ろしい
ということがあるんですね。
けれど、その空白期間こそが
ものすごく大事で、
そこで様々な洗礼を受け、変容があり、
意識の大転換があったりします。
だから、どれだけ恐ろしくても
そこを通過させられるわけです。
にもかかわらず、多くの人は
その空白期間の意味も分からないので
とても恐れ、そうならないように
必死で古いものにしがみつき、
変容を望みながら、変容に
徹底的に抵抗します。
そうした恐れを正面から受け止め、
肚を括るという在り方をするから、
開く扉があるのであり、
保証を求め、逃げ道を残している
在り方故に、前に進めないのだ
ということが理解できるかどうか。
このとき、自身の内なる導きを
どこかで感じている人は、
もう逃げ道に見えているそれも、
逃げ道になり得ず、他に道はないことが
わかるでしょう。
その導きを感じられるくらい、
自分自身に深く向き合う必要があるし、
今自分がどうすべきなのか、
どう在るかを頭ではないところで
知る感覚を開いていく必要が
あるのです。
保証を求める人は、
そういうレベルの自身との深い対話を
他者の言葉で代用しようとしています。
そういう在り方で、
この先も生きて行こうとしている
ということなんですね。
その在り方で、新たな道が
開くでしょうか。
道を開くのも、己の在り方ひとつです。
逃げ道を断って、肚を括るというのは、
勢いで妄信的にすることではありませんし、
ギャンブルでもありません。
自身の道との深い対話なく
突っ込んでいくのは、浅はかです。
そのところもくれぐれも、と
念押ししておきますね。