先月、今月と身近な人の生死を
意識する場面が多くありました。
身内の他にも、
長年お世話になってきている方の
入院という出来事もあったせいですが、
色々と感じるところがありました。
1月に母が亡くなった時は、
生前の言動からも、母は自分の
思うように生きて、逝ったのだな
と納得できていたのと、
目の前の膨大な作業をこなすのに必死
だったので、それほど生死ということを
考える暇もなかったのですが、
身内の入院の時は、
診断の前に即座にそれが生死にかかわる
とわかったので、できる限りの対処を
色々やってきました。
それでも、
やったところで必ず助かるとか
そういうことは思っていなくて、
もしこれでダメだったとしても、
やったことの功徳は次の人生に
持っていけるから、その人生が福に満ち、
幸せであればいい。
または、これで助かって、
本人に生きて幸せになろうという
意志があるのなら、それはそれで
サポートをしようと思いました。
というのも、セッションなどでしばしば
誰かがその人のためにやってくれたこと、
祈ってくれたエネルギーが、
その人の魂の歩みに深く滋養となって
守護し、導きの一部になっているのを
読み取ることがあったからです。
祈りは、人生を越えて、
届いているんですね。
それはさておき、
本人の魂の願いがどこにあるのかは
常に念頭にあったし、自分のエゴを
押し付けるのも違うと思うので、
本人の魂にとって最高最善であれ、
というのは、いつもベースにあります。
だから、魂の願いがどこにあるのか、
働きかけをするときも、本人の魂の歩みに
じっと向き合っているんですね。
人生に起こる出来事というのは、
どんなに突然に思えても、
昨日今日ポッと起こってくる
わけではありません。
様々な次元の、無数の因果が折り重なって
一つの結果に導かれています。
今はその因果の因を辿っていく
ということをしているのですが、
その因は、私を含め周囲の人たちとの
因果の糸を絡め合いながら、ものすごく
深く、複雑な様相を呈しています。
関わる私も、その出来事を通して
深く自分自身の因果に向き合い、
古い魂の歩みの記憶を引っ張り出して
いるところです。
そうなると、それはもう生死を越えた
魂の旅路になるわけで、魂は今回の
この出来事によって何をしたいのか、
その意図を汲み取り、応えていかねば
ならないわけです。
単に病気が治ってそこそこの社会生活を
送れるように復活できればいいとか
そういうことではなくて、
(それも大事ですが)
魂の歩みとして今ここを捉えなければ、
見当違いの応答をしてしまいます。
だから、本人にも、受け取れる範囲で
私が今のところ読み取ったものを
伝えているのですが、当人なりに
理解しようとしてくれているのは
救いです。
このタイミングで、
本人と、関わる人たち、そして
家のカルマにそれぞれ深く向き合う
ことになっているのも、魂の計画
なのだろうな、とひしひし感じています。
まだその取り組みは序盤
といった感じですが、数カ月経てば、
何かしらの兆しは見えてくるでしょう。
いずれにせよ、
しっかり向き合って、良い形で
それぞれが応答できるように、と願い、
祈りながら過ごしている今日この頃
でありました。