ある人を見ていて、
どうしてこの人はこうも物事を
被害者意識で見るのだろう、
と思うことがしばしばありました。
だって、私はこうした方が良い
と思っていたけれど、
あなたがそう言ったから
こなったんじゃないの、とか、
あの人にこんな風にされた、とか、
(勝手に)あなたのために
こうしたのに、とか、、、。
本人は全くの無自覚だと思うのですが、
言葉の端々に他人軸が表れていて、
思うようにならない不満を
溜め込んでいる様子が伺えるのです。
不満が意見があるなら言えば良いのに、
といつも傍から見ていて思うのですが、
その割には黙って何も言わないし、
どうしたい?と聞いても、
どっちでもいい、何でもいいと、
ほぼ自分の意見や希望を言うことは
ありません。
そうして、溜め込んで溜め込んで
限界が来て何かのきっかけがあると、
そのときに一気に今関係のない
過去の諸々の不満が噴出するのです。
身内だし、長年の付き合いだけれども、
年を取って年々、その傾向が強くなって、
なかなか、めんどくさいな~なんて
思ってしまう今日この頃であります。
ただ、その人の生きてきた時代や軌跡
を思えば、出る杭は打たれるとか、
ちょっとした言葉の揚げ足取りとか、
悪意ある嫌がらせとかを散々経験
してきてもいるので、
そうなってしまうのも
わからなくもない部分もあります。
けれども、同じような環境で
似たような経験をしてきても、
そのようになる人とならない人が
いるのですよね。
何が違うのだろうと考えてみると、
やはり自分軸で、体験をどこまで
消化・昇華できたか、ということ
なんじゃないかと思います。
心が傷つき、萎えるような体験を
したときに、次からはただ委縮して黙る
のではなく、
何か自分に至らぬ点、非はなかったのか、
もっと別の表現方法はなかったのか、
改善点はあるのかと自らを省みて、
より発展的に何かを掴み取り、
新たな表現につなげていけたら、
自分の表現を諦めるのではなく、
さらなる糧にできるだろうと思います。
自分の思いや気持ちを表現するというのは
自分に対する責任でもあります。
それを表現しないままに、
相手に察し、対応しろと求めるのは
怠慢でもあろうと思います。
そんな風にしてもらえたら、
自分は楽ですし、察しない相手が悪いのなら、
すべて相手の責任にできますからね。
自分で伝える努力をする方が、
どれだけ大変か。
傷つき、打ちのめされるかもしれない。
その恐怖におののき、それを越える努力を怠り、
逃げていないでしょうか。
諦めは感情の蓋、と先日書きましたが、
蓋をして、腐らせてはいけない。
すねて、こじらせても、
自分がねじけ、卑屈になるだけです。
自分なりに、どうしたらそれをうまく
糧にできるか、探求しましょう。
出来事を、自分よりも大きくして
自分を無力にしないように。
実際は、いかなる体験も、
自分という意識のキャンバスに
起こっているのだから、
自分よりも大きいということは
ないはずなのです。
必ず道はある。
それを見つけるのです。
人は、ものごとを自分よりも大きくして
無力になったとき、責任転嫁を
し始めます。
そうして、被害者ポジションになると、
精神が卑屈になりがちです。
たとえ何かの被害者になったとしても、
自身の責任を引き受けて向き合えば、
卑屈にはなりません。
自身の引き受けるべき責任を
しかと引き受けることが、
自らの内なる力を汲み上げる鍵なのです。
責任転嫁は、ホースに開いた穴のようなもの。
そこから、生命エネルギーが駄々洩れに
なります。
一時的に楽になるように思えて、
百害あって一利なし、です。
私自身、気を付けていても、
いつの間にやらやってしまっている
こともありますが、
日々精進、です。