来週13日(火)19時より
毎月恒例の満月のオンライン瞑想会、
ドタ参加も大歓迎!
詳細、お申し込みはこちらからどうぞ。
⇒満月のオンライン瞑想会
さて。
先日参加したとある勉強会で、
洞山良价(とうざんりょうかい)禅師の
吾常於此切
(我、常にここにおいて切なり)
という言葉のお話がありました。
今この瞬間のプレゼンスを説く
レナード・ジェイコブソンの教えにも
通じる話だな、と思いながら
拝聴していたのですが、
個人的には、最後の「切なり」
という部分に感じるものがありました。
自分自身の魂の記憶を含め、
様々な人生をリーディングしてきて、
この「切なり」の心に触れた時はいつも、
何とも言えない気持ちになります。
その切なる思いがしばしば、
神と人との対話となって魂に刻まれ、
いくつもの人生を貫いて流れる
テーマになっていたりするのを
見ることがあるからです。
天に向かって放たれた切なる思いが
幾星霜を経てまさに聞かれ、
叶えられている様を目撃するとき、
天の深遠なる意図と、
人知を超えた愛に触れて、
とても神聖な気持ちになるのです。
そのようにして見ると、
「切なり」というのは、
祈りそのものと言えるかもしれない、
と思うのです。
と言うことは、
「我、常にここにおいて切なり」とは、
毎瞬を祈りと共に生きている状態
となります。
祈りと言うのは、
別に何かをお願いしている状態
ではなくて、
私の感覚では、
神人一体となって生きている状態
のような気がしています。
とは言っても、
とんでもなく高尚な状態ではなく、
ただ、神と人の心が通じている。
そんな感じです。
スマートだったり器用だったり
上手だったりとか、そういうことは
関係なく、
ただ、内なる神とともに在るのかどうか。
それだけなのです。
そのようにして生きるとき、
内なる神の質が、人生に流れ込んで
来ます。
それは、何かメソッドとして
体現できるようなことではなく、
在り方そのものなんですね。
だから、私は常々
ワークはメソッドではない、
在り方なのだとお伝えしてきている
のですが、
まだまだ、メソッドとして理解し、
そのやり方を習得することで
何かしら自分の人生を良くしていこう
とする人が多いです。
ただ、それだと
自分自身に深まっていくことは
ないでしょう。
根本的な「質」が違うから。
私はそういうことを
お伝えしたいわけではなく、
もっと人生の深遠さ、命の神聖さに
触れてほしくてセッションをしたり
発信をしているので、
それを自分の人生から
どこか遠いところに追いやらないで
ほしいな、と思うのです。
それは自分の人生とは関係のない
絵に描いた高尚な餅の絵ではなく、
人生でまさにこの自分が体現していく
現実的な可能性なのですから。
高尚な餅の絵を眺めて楽しみたい人は
多いですが、実際にそれを食して
楽しもうという人は、どうしてこうも
稀なのでしょうか。
古今東西のマスターたちが言うように、
それを願う思いが生まれること自体が
恩寵なのでしょう。
自分の人生に本当にそれを体現しよう
と思わない限り、絵に描いた餅を
楽しむレールが続くだけです。
それは一見、体現することに
近いように思えるけれど、
永遠にその可能性が交わることは
ありません。
今この瞬間、内なる神とともに在る。
その切なる歩みを、
忘れずにいようと思います。