昔、付き合いのあった知人が、
とある神社で
「○○を叶えてくれたら自分の命をやる」
とお願いごとをしたことがある、
というのを聞いて、びっくりしたことが
ありました。
結局、その願い事は叶わなかったそうで、
本人は「自分の命なんていらないってよ」
と残念そうに言ってましたが、
真っ当な神様で良かったな、
と思いました。
このところ国内外でも話題だという
映画「国宝」にも、主人公の喜久雄が
神社(お稲荷さんかな?)に
芸を究めることと引き換えに、
何もいらない、とお願いごとをする
場面がありました。
このシーンを見た時に、
あちゃ~。。。と私は思ったのですが、
こういう願い方を引き受けるのは、
大体がよからぬ者だからです。
願いを叶えてくれるなら
いいじゃないか、と思われる方も
あるかもしれませんが、
その代償は重く、人生をまたいで
ずっと持ち越していくパターンを
良く見ているので、割に合う
取り引きではないよな、
と思うのでした。
それに、叶えてくれるならまだしも、
代償だけ持って行って、何もしない、
というケースも多いし、
叶ったとしても、破滅的、悲劇的な
結末に向かうことがほとんどで、
セッションで見たケースでは100%
みな幸せにはなっていないんですよね。
金や権力をほしいままにしても、
クーデターでむごい最期を迎えるとか、
好きな人と一緒になっても、相手に
愛人を作られて愛されない上に
逆に手にかけられるとか、
それでも、よからぬ者にとっては、
叶えてやったが何か問題があったか?
という具合です。
そうして、願いを叶えてやった者の
魂も喰らいながら、その苦悩を
高笑いしつつ楽しむのです。
しかもそれが今生のみでなく、
次の人生にも持ち越していく
となったら、どうでしょう。
魂が、延々と彼らの手の内で
終わりのない苦悩のダンスを
踊らされて行くようなものです。
欲に駆られて、そんな不毛な取引に
手を出すよりは、堅実に自分の力を
磨いていった方が、ずっと健全で
良いように思います。
それに、
そうした取引で得た力というのは、
どこか魔的なものの質感がありますね。
魂の長い長い旅路で、
そうしたよからぬ者との取引の
記憶がある人は少なくないですが、
リーディングをしていても、
そういう取引の痕跡は黒いコード
として読み取れます。
取引の回数が多かったり、
内容が濃いほど、禍々しい険のある
黒さが濃く読み取れるのですが、
セッションで何とか取り組んで
彼らとの取引解除をし、関係性が
離れていくに従って、明るさを
取り戻していく方も多くあります。
何にせよ、やたらな存在とは
取引をしないというのが、結果的には
そうしてよかったな、という結果に
なると思います。
無力感も、無価値観も、劣等感も
怒りも憎しみも、ちゃんと向き合って
横道にそれず、自分なりに昇華
させること。
人間としての真っ当さを
忘れてはいけません。