このところ、出口戦略について
色々考えさせられることがあり、
今日はそれについて思うところ、
書いてみます。
何のことかというと、
色々なものごとの終わり方について。
今年1月に母が亡くなり、
その後、色々な経緯を経て
会社の清算登記もこのほど
ようやく無事に完了したところでした。
明治から続いた店がなくなったのは
淋しいことだけれど、一族の手で
きれいに終わらせてあげられたことは、
せめてものことだったかと思います。
店と不可分だった母の人生も、
最期の日まで店に立って、自分の手で
レジを締めたことは、母の意地だったし、
最後の望みだったと思います。
その結論だけをがっちり決めていたから、
多分ここに至る母の人生では、他の選択肢は
無かったでしょう。
傍から見ていて、色々思うところは
あるけれど、母は自分の幸福よりも、
その「形」を取ったのだと思います。
ただ、私にはそれを母の幸福だとは、
どうしても感じられないし、
母の意識は、幸福になろうとは
していなかったように感じます。
普段の言動から、母は
自分にとって何が幸福なのか、
という考え方は、あまりしていなかった
のではないかと思います。
あるいは、随分前に、
それを諦めたのかもしれませんね。
自分の置かれた立場から、
やるべきことを母なりに見て、
色々な思いからした選択なのでしょう。
それはそれ。
もう一つ、先日、古くから家族ぐるみで
おつきあいのある高齢のご近所さんが、
お風呂場で倒れているところを見つけて
介抱するという事件があって、
人生の終わりというものについて
色々思いを馳せていました。
その方も、病院や施設はできるだけ
入りたくない、家に居たい、できるだけ
人に迷惑をかけたくない、ということで
限界を越えて一人で頑張っておられました。
本当に色々、ケジメをきちんとされる方で、
もしものことがあった後のことは、
随分前から手筈をしていたのですが、
今回のような事故を通して、
それまで譲らなかった条件というのも、
もっと柔軟に変えていっても良いのでは?
と、傍から見ると、思ってしまいます。
何ごともそうなのですが、
もしものことがあった時に、
どう退却するか、というのが
出口戦略です。
ここをいかに取るかで、
傷があっても浅いか深いか、
深刻なダメージを受けて崩壊するか
生き残るか等が決まってきます。
ものごとは、
始めるよりも、終わる方がずっと
難しいとよく言われます。
始まりのときは希望に溢れ、
勢いもあるので、終わりについて
考える人は、そう多くはないのかも
しれません。
けれど、契約事なんかでも、
もしもの時の条件について
きっちり詰めて、確認しておくことは
とても大事です。
そういう最後を歩みの途中で確認しながら
軌道修正しつつ、自分がどこに向かって
歩んでいるのかを意識すること、
大事ではないかな、と思います。
終わりについて考えることを、
縁起でもない、と嫌厭する人がいるけれど、
そういう人は、本当に深く自分の人生に
向き合えているのだろうか、と思います。
人生を如何に生きるかに真剣に
向き合っている人は、必然的に
死生観を持っているはずだと思います。
よくしぬことを考えずに、どうして
よく生きることができるでしょう。
終わりを知っているからこそ、
今をより深く生きることができる。
そんなことが、ないでしょうか。
終わりということを前にすると、
虚しきものが何なのかがよく見えてきます。
自分の人生、どの出口からどんな風に
退出していくのか。
だとしたら、今何をどこまでできるのか。
漫然と生きるよりも、明確になるものが
あるのではないか、と考えました。