ここ最近、
自分の内側の景色の質感が
少し変化してきていて、
魂の深いところで知っている、
懐かしい質感が日常の中で
感じられる瞬間がだんだんと
増えてきています。
それに伴って、
内なる神に触れる感覚が
さらにぐっと鮮明に、
近しくなっている感じなのですが、
その状態で、
度々自分に問うことがあります。
自分は、内なる神が
私に与えたがっているものを、
受け取る準備ができているだろうか、と。
私たちの多くは、
神が私たちに与えようとしているものは
欲しがらず、別のものを欲しがって
それを手に入れようと
右往左往しています。
傍から見ると、
明らかに神が与えようとしている
ものの方が、ずっと私たちを
幸せにするものなのに、
そういうものは欲しがらずに、
目先の上っ面な欲求を満たすもの、
見当違いのふさわしくないものばかりを
血眼になって追いかけ、
貪っているのです。
けれど、そうしている本人は、
それが見当違いだとは
気が付いていないことが
ほとんどです。
深いところまで満たされる
感覚はないけれど、
そんなものだと思って、それが
当たり前になっているんですね。
目先ばかりを追いかけて
生きていると、疑問すら
湧かないのかもしれません。
けれども、中にはそれでは
どうしても満たされない、
深いところの渇望に耐えられなくなる
人もいます。
そういう人は、
目先の上っ面だけではない世界が
あるはずだと、探し始めます。
そうして、ありとあらゆる
今までとはちょっと違うように見える、
より高尚そうな何かや、真新しく
感じられる様々な刺激的なことに
出合っていきます。
けれども、本当にそれらの出合いが
自分の深いところの渇望を
満たすものなのかは、
無数のトライ&エラーを繰り返しながら、
学んでいくことになるでしょう。
そうしてその人は、
自分が本当に求めているのは
何なのかに気づいていきます。
誰かに刷り込まれた理想でもなく、
手っ取り早く、表面的な苦痛を
麻痺させてくれる魔女の秘薬でもなく、
本質から遠ざける、あらゆる
トラップをかいくぐって、
ただ、自分の深いところからの
呼びかけだけを頼りに
辿り着くところがあります。
今、自分が生きるこの世界の
あらゆる事象を通して神は、
この自分に何を差し出しているのか。
自分はその心を受け取っているのか。
これは何だろう?と頭で考える人は、
神の心をすっ飛ばして、解釈を
こねくり回そうとしています。
そうではなく、
神の心に触れるんですね。
そうして初めて、正しく受け取り、
応えることができる。
そこに込められた愛を
受け取ることができるのです。
けれど、多くの人は、
神の心に触れようともせず、
そこから逃げていきます。
あなたも、逃げていますか?
神の心に触れることを、自身の現実に
受け入れているでしょうか。
本当の自分を生きるには、
内なる神の心に触れることが
必須です。
それを、
どこか遠いお伽話の世界のこと
にしている人は、
霊性の道を探求していると
思っていても、それはただの
パフォーマンスにすぎません。
本当には求めていないし、
ただ、そういう格好の自分が
好きなだけなのです。
絵に描いた餅を楽しむのが
悪いと言っているわけではありません。
ただ、絵を楽しむのと、
本当に実践することは、
全く別のことです。
本当に実践するからわかることが
あります。そしてそのすべてが、
内なる神からあなたに贈られた
唯一無二のギフトなのです。
その歩みが深まるにつれ、
あなたは自分と神が常に
共に在ることを感じながら
生きていくようになるでしょう。
それこそが、
同行二人(どうぎょうににん)。
「神と一体の我」の姿なのだと思います。