諦めという忘却の彼方に沈めた本当の願い

先日告知したガネーシャ・ギリ先生と
CHAZZ先生とのコラボ講座ですが、

なんと告知3日で満席になってしまった
ので、急遽会場を変更し増席しました。

会場変更に伴い、講座の開始・終了時間が
30分後にズレることになりました。

お申込みをご検討中の方もまだお席が
ございますので、ぜひこの機会にどうぞ。

詳細はこちら。
http://healing-gate.com/blog/seminner/korabokouza20180616/

さて。今日の本題です。

求めるからこそ、苦しいことって
ありますよね。

どうしてもそれが欲しい。達成したい。
だから死ぬほど頑張る人もいれば、
求め続ける苦しみに耐えきれずに
求めること自体を諦める人もいます。

諦めきれずに頑張ることができるのも
才能だったり努力だったりしますが、
そうしたものが備わるのは、
恩寵なのだと私は思います。

努力し続ける精神力も才能もない
のだとしたら、恩寵を祈る
という道もあります。

以前にも書きましたけれど、
「私にそれができるだけの力を
与えてください」と祈るのです。

まぁ、以前の私のように、
どうしても祈れない人もいるので、
祈ることができるというのもまた
恩寵なのかもしれませんが。

これもどこかで書いた話なのですが、
瞑想中に、ふとある気づきが
やってきたのです。

神は、私が祈ったどんな些細な祈りの言葉も
すべて一言一句覚えておいでである、
という明確なインスピレーションが
降りてきたのです。

長い長い魂の旅路でどれだけ私は
神に祈ってきたでしょう。

ふと見上げた砂漠の空に、
今日もこの旅が無事であるようにと
祈ったこともあれば、

明日をも知れぬ混乱の世で、
廃墟に身をひそめながら我が子の無事を
祈ったこともあり、

日々つつましく暮らす街の労働者として
いたときに、いつか神の教えに触れる
ことができるように、と願ったことも
ありました。

それらどんな小さな囁きであったとしても、
また本人が忘れていたとしても、
こんな願い、きっと神には気づいても
もらえないだろうと思っていたその言葉も、
神はすべて聞いておられたのです。

私にはそのことが、否定のしようもなく
はっきりとわかりました。

そして、その願いの数々がはるかな時間を
超えて、一つ一つ叶っていることも。

今生、生ける仏陀に出会えたことも、
神の計らいでなくて、何と言えましょう。

たくさんの失望と無力感、虚しさも
味わいながら、なおも求め続けることは
なんと過酷なことでしょうか。

人よりも大きなことを成し遂げている人は、
その陰で人並み以上の失望や悔しさも
味わってきているのかもしれません。

その歩みのすべてが恩寵です。

苦しみのあまり、悲嘆し、怒り、憎み、
呪ったことさえあったかもしれません。

それでもなお、神の恩寵は
いささかもブレることなく、私たちを
導いてきたのだとしたら。

私たちが本当にその事実に触れたとき、
拗ね、あらゆる抵抗を試みてきたその在り方は、
その瞬間から変質してしまいます。

頑なになりすぎた心の鎧は、
そうした極端な振り幅の体験をしないと
容易には破ることができないため
なのかもしれません。

よく、求めても求めても得られない苦しみから
逃れるために、そもそもそんなことは望んで
いなかった、ということにしてしまう
逃避をすることがあります。

そもそも望んでいないのだから、求めても
得られない苦しみなどは存在しない
ことになります。

こうして本当の望みを抹殺し、苦しみだけが
無意識の奥底に沈められてしまうのですが、

本当に欲しいものは、実は魂の導きに
繋がっています。

自分は何者で、今何をすべきなのか、
それをいかにして行うのか、ということを
知るための導きなのですが、

それをこのようにして抹殺してしまうと、
必然的に私たちは自身の人生の導きから
断絶してしまうことになります。

自分が何者なのかわからなくなり、
今何をどうすればいいのか、さっぱり
わからず、人生の迷子になってしまうのです。

本当の望みの代わりに、叶わなくても
さほどショックを受けずに済む
2番目以降の願いでは、こうした導きの
代わりには、どうやってもなり得ません。

本当の願いは、導きであると同時に
またそれ自体が達成のためのエネルギー
でもあります。

代用品では、この情熱は湧いてこないのです。

本当の願いを抹殺して生きている人は、
どこか生き生きとした覇気がありません。

自分の人生を生きている喜びが
湧いてこないのですね。

願いは、人生のビジョンでもあります。

この「ビジョン」という言葉、
ネイティブアメリカンの言葉では
天命とか使命といったニュアンスに近い
ものがありますが、

以前読んだトム・ブラウン・ジュニアの
グランドファーザー」(徳間書店刊)
という本の中で、

自身のビジョンを生きないのなら、
死んだも同じ。

という言葉がありました。

いかにそれが過酷な運命であろうと、
それを引き受けなければ、
本当に自分の命を生きたとは
言えないのですね。

たとえどれだけ逃げようとも、
天命は私たちを放しはしないでしょう。

自分の天命がわからない、という方は、
まだそれを知るタイミングに来ていないか、
どこかで本当に自分がなすべきことから
逃げているのかもしれません。

諦めという忘却の彼方に沈めた願いを
今一度引き上げ、向き合ってみると
枯れていた生命力が甦るかも。

あなたの人生に、祝福を。

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