先日、ある方と話をしていて
「愛」という言葉の表現について
すっきりしないものを感じた
ことがありました。
愛というのは、人それぞれに
様々な受け取り方があり、
その人特有の概念が貼りついて
解釈されがちな言葉の最たるもの
と言ってもいいような気がします。
同じ言葉を使っていても、
その人の意識に触れるとどうも
概念的に使っているな、とか、
何かしら実体験に基づいた
生々しい感覚から発せられた言葉だな
とか、話す人の使う言葉の響きで
色々感じ取るものがあるわけです。
温かくて優しく、甘く、明るくて
心地良いなどのポジティブな
イメージの場合もあるし、
自己犠牲とか服従、
痛みを伴う体験の記憶などと
結びついているケースもあるでしょう。
私自身、あまり愛という表現は
使わないのですが、私の定義で言う
愛を表現するときは、「まこと」
という表現をすることが多いように
思います。
愛には確かに優しく温かな
感触もあるでしょうが、
本当に深い愛は、そればかり
ではありません。
むしろ、
魂を深く揺さぶられるような愛は、
厳愛の方ではないかと思います。
優しい愛は、
未熟な魂にもわかりやすいですが、
厳愛は、本当に成熟しないと
その真意に触れることすらできず、
何なら、唾を吐いて砂をかけて
捨て去っていくようなものに
見えたりもします。
けれど、後にその人の魂の成熟が
追い付いた時、相手がどれだけの
犠牲を払い、覚悟をもって自分を
愛してくれた結果の行動だったのか
がわかるのです。
嫌われるかもしれないし、
恨まれるかもしれない。
一生理解されず、誤解されたまま
かもしれない。
にもかかわらず、
一切の妥協なく、相手の成長と
可能性を信じて魂の道に準じた
態度を取ることは、生半可な覚悟で
できることではないのです。
誰だって、自分のことを
良く思ってほしいし受け入れてほしい。
慕ってほしいのです。
けれど、それをすることが
本当に相手のためにはならないと
知ったときに、どうするのか。
そもそもそれを知る段階で、
相手の魂を深く見通さなければ
ならないし、
そのためには、
まず自分自身の在り様をどこまでも
正さなければなりません。
本当に相手に深く向き合うと、
そこには自分自身の歪みも
誤魔化しも、鏡に映るが如く
映ります。
それを見つめながら、
自分自身を整え、覚悟するのです。
そういうところから差し出された
ギフトであっても、受け取る相手が
未熟であれば、理解できないのです。
けれど、その人はそんな目先のことなど
見てはいません。
今生で無理なら、来世で、来来世でも、
いつかその人の中で目覚めの種が
芽吹いた時のために、種を蒔くのです。
それが真の愛だと私は思います。
目先の自己都合の心地良さに浸るのは
愛ではありません。
真実に対して誠実である姿がまことであり、
その在り様から生まれ、伝わるものが愛
というのが私の愛の定義です。
まこと無き愛は愛ではない。
ここが抜けていたりブレると、
愛の概念はまがい物になりますね。