聖と俗の狭間で

よく、霊性の道を歩む方にみられる
パターンの一つに、崇高な神なる世界と
日常を全く別のものとして捉えていて、
両者に如何に折り合いをつけるかに
葛藤している、というものがあります。

私からすると、日常もスピリチュアルも
地続きで切れ目はないので、
そこを分けて捉えてしまったら
なかなか大変だな、という気はします。

なぜそこを分けて捉えてしまうのかな、
と考えてみると、多分そういう方の多くは
霊性の世界を、醜さや思うようにいかない
現実の苦悩からの逃げ道にしている
ところがあるのではないでしょうか。

元々、歴史的にもスピリチュアリティの
分野を担ってきた宗教は、西方浄土や
天国の概念のように、

逃げ場のないこの世の苦しみからの
救い(逃げ道)を提供してきた
部分もあります。

だから、今のスピリチュアル業界も、
色々思うところはありますが、
現実逃避的な世界を提供する
素地というのは、多分にあるのだろう
と思います。

だからこそ、地に足をつけることが
強調されるわけですが、
現実が苦しい人にとって、それは
とても辛いことなんですね。

そのリアルを、マインドで
至福のイメージの世界に逃げるか、
とことん向き合って昇華させて、
リアルな安堵と喜び、恩寵に
変えていくかで道が分かれます。

後者を選べは、現実世界と神なる世界は
分離せず一つの地続きのものとなり、
聖と俗の間に境目はなくなります。

世俗の極みのような中にも、
ぐっと奥を深く見れば、
神なる恩寵に触れることを
知っているからです。

現実の苦しみを昇華させずに
マインドに逃げると、どうしても
苦しい世俗を憎み、批判し、

そこから自分を分離して、

自分はその世界の住人ではない!
という意識でこの世界から遊離
していきます。

だから、地に足をつけることが
できないのです。

世俗の現実とスピリチュアリティは
相反するものではなく、
両立するものであり、そもそも
分離などしていないのです。

そして、スピリチュアルというのは、
本気で霊性の道を歩む者にとって、
逃げ道とはなり得ないということ、
安易にそこに逃げ込もうとする人は、
どれだけ理解しているでしょうか。

どんなところに逃げ込もうと、
逃亡者は所詮、逃亡者でしかありません。

在り方が逃亡者なら、
どこへ行って何をしようとも、
逃亡者です。

やっていることが問題なのではなく、
在り方の問題です。

恭しく神仏を礼拝し、マントラを唱え、
山に籠っていれば素晴らしい
スピリチュアリストになれるわけ
ではありません。

何がスピリチュアルの本質なのか。

その人の深いところで何に触れ、
何を感じ、この世界でこの自分を通して
どう応答しているのか。

その在り方そのものが、
霊性の道なのではないかな、
と私は思います。

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