来週22日(月)19時からの
冬至の瞑想会、ドタ参加も大歓迎!
闇が極まって光に転じる特別な時、
ともに自身の命の次の扉を
開いていきましょう。
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さて。
私たちはどこか、
自分の存在意義を確認したい
という欲求を持っている
ところがあると思います。
自分は愛されているのか、
認められているのか、
本当にここにいて良いのか、
それを肯定してくれる誰かや何かを
探し求め、彷徨っているのです。
たとえば、生まれ育ってくる中で、
親に無条件に愛されたという
感覚を心の底に持っている人は、
確かに人生を切り開いていく力が
強いように感じるし、
そうでない人は
自分がここにいて良い理由を探すことに
余計にエネルギーを使ってしまっている
ようで、ハンデを感じさせるケースが
多いように思います。
では、この世界に生きる
自分という存在を肯定する基盤
となるようなものが得られなかった人は、
生涯それが満たされないのかというと、
必ずしもそうではないと思います。
そういう人は、
最初から得られた人よりも
もっと高度にその基盤となるものに
触れていくような学びを選んでいる
のだと思うのです。
誰しも、この世界に生きる人は
完全ではありません。
不完全なまま、
大人になって子供を産み育て、
様々な人間関係を築いていきます。
自分も満たされず、それどころか
深い傷を抱えた状態で待ったなしに
決して優しいばかりではない環境で
子育てをしなければいけないわけで、
本当に世の親御さんたちのご苦労は
いかばかりかと思います。
親も子も、
思うようにならない無数の諸々の中で、
互いに満たされないものを
何かや誰かで埋めようとしながら
繰り広げられる駆け引きや
コントロールに傷つき、傷つけ合い
諦めたり閉ざしたり。。。
けれども、そんな迷路の中から、
時折抜け出ていく人がいます。
深い深い傷も自分で昇華させて、
より大きな愛に目覚めていく人たちです。
その愛は、最初から満たされていた
人たちが知っている愛よりも
さらに深いレベルの愛で、
不足を埋めるために
必死で得ようとしていたものとは
全く次元の違うものです。
多分、私たちはそういうレベルの愛に
目覚めていくには、既存の満ちた感覚を
いったん壊していかないと、
辿り着けないものなのかもしれません。
だから、より大きな愛に目覚めて行こうと
している魂たちは、満たされない状況を
選んできているのかもしれませんね。
そうでないと、そこそこ満足している
状況を脱していこうとはしませんから。
深い傷を負うような体験をするのも、
そんな痛みすら超えていくような
愛を体現できるのかという命題を、
自ら証明したかったのかもしれません。
たとえその願いが
忘却の彼方に忘れ去られ、
絶望の淵に長いこと囚われることが
あったとしても、
必ず超えてみせるという、
深い信頼と強い決意を、
魂の旅路のどこかでしているのでしょう。
そんな、魂の深い深い願いや意図は、
私たちの日常の人間目線の価値観では
計り知れません。
けれど、時折そんな願いに触れると、
私たちの命というのは、なんと壮大で
神聖な流れの中にあるのだろうと
深く敬虔な気持ちになるのです。