母の死から1か月ちょっと、
まだまだ絶賛、諸々のショックは
継続中でありますが、
通常ではなかなかない自分の心の動きを
日々観察しています。
感情について、多くの人よりは
扱いも分かっている方だと思いますが、
それでも、辛くない、ということは
ないですね。
泣きたくなったら泣くし、
淋しがることもあるし、
ふと心に蘇る在りし日の母の姿に
切ない気持ちにもなり、
喪失感に苛まれたりもします。
けれど、そういう自分を
殊更にネガティブに捉えることは
しませんし、無理にポジティブに
なろうともしていません。
在るがまま、起こるがままに
自分の気持ちを受け止め、
表現しています。
道を歩いていても、
心の奥の何とも表現し難い
鉛のような重さに、辛いなぁと
思うことがあるのですが、
それでも、温かな声をかけてくださる
ご近所の方たちに、笑顔で返す
こともあるし、普通に仕事したり
作業をしたりしていることもあります。
そんなときでも、家の固定電話には
なんだかんだと不躾な営業電話が
かかってくることもあって、
こんな時にかけてくるな!!(怒)
と思ったりもするのですが、
向こうもこちらの事情なんて
知る由もないのだし、私もこんな風に、
相手の状況もそっちのけで自分の都合で
あれこれ言って、不躾な話をしている
ときがあるかもしれない、と思いました。
とかく人は自分の都合で相手を
ジャッジメントするものだし、
たとえば今、
電車に乗って隣に立っている人は、
先週最愛の人と別れたばかりで、
どうにか気持ちを奮い立たせて
会社に行く途中かもしれないし、
平日の午後に高級レストランで
ママ友たちらしき人達と談笑する
あのマダムは、
1年前に子供さんを亡くして
どうにか外出できるようになって
友人たちに励まされてやっと
笑えるようになったばかり
かもしれません。
その一場面だけ切り取ったら、
如何にも幸せそうに見えても、
本当のその人の背景や事情なんて
わからないのです。
ましてや、本当に深く傷ついた
気持ちや深い痛みなど、
おいそれと他者に見せる人は
そうはいないでしょう。
人は多かれ少なかれ、
そういう諸々の心の内のものを抱えて
生きているものだと思います。
そんな、人知れず抱えているものを
それとなく察し、思いやりを持って
接することができたらいいな、
と思います。
何をしてくれるでもないけれど、
心の内の諸々を知ってくれている
人がいる、というのは、
どこか心をほっとさせます。
母が亡くなって、淋しさや悲しみ
とも違った、何とも言えない辛さを
表現する言葉が思いつかなくて、
これは一体何だろうとずっと
考えていたのですが、
常に私のことを知っていてくれた
存在がいなくなってしまった
という喪失感だったのかな、
と思いました。
母とは、お互いに理解し合えずに
長く苦しんだ時期もありましたが、
それでも随分和解出来てきていた
と思いますし、
深い心の内はお互いに不可侵で
距離を持っていましたが、
それでも日々、こんな風に生きていた、
というのを生まれてからずっと
知ってくれていた存在がいたと言うのが
どれほど支えになっていたのか、
今になってしみじみ感じています。
自分のことを知ってくれている存在がいる
ということがもたらす安堵や癒しは、
他の場面でも感じたことがありますが、
たったそれだけのことで、
孤独が癒え、自身の辿った人生の軌跡が
報いられた思いになるのは不思議ですね。
セッションなどで、ご先祖様や
迷える御霊に向き合う時も、
彼らの辿った人生と、その思いを
受け止めて差し上げることが、
供養になることがあります。
報われることを殊更に求めている
わけではなかったとしても、
知ってくれた、というだけで、
良いときがあるのですね。
そんな、人の心の様を見るにつけ、
人間とか人生とかの本質は、
己一人で完結するものではない
のだろうと思いました。