今日はゆる~く(?)、
人生の終わりについて、
思うところ、書いてみます。
今年1月に母が亡くなり、
夏には身内の2度の入退院、つい先日には
子供のころからお世話になったご高齢の
知人女性の救急搬送への付き添いなど
のことがあり、色々思うところが
ありました。
母の件については、
残された者としての立場から、
身にしみて感じることがあって、
後を託す立場の人に向けて
エンディングノートなど、
色々準備をしたのですが、
知人女性の件では、
また違った角度から考えさせられる
ことがありました。
その方は数年前にご主人を亡くされ、
子供もいないことから、ご自宅で
一人暮らしをされていました。
一人になられてから、
何かと家族ぐるみで気にかけていた
のですが、
近年は体の衰えの速度が本当に早くて、
週ごと、日ごとに、衰えていく様子は
傍で見ていてもヒヤヒヤしていました。
ご本人はとても自立心の強い方なので、
周囲が手を貸そうとしても、できる限り
自分でやろうとされていて、
それはそれで素晴らしいことなのだけれど、
もう限界はとうに越えているように
見えました。
そしてついに先日、自宅で事故が起こり、
その直後に様子を見に行った私が発見、
救急搬送となりました。
来るべくしてその日が来た
という感じでしたが、さすがに
事故直後の現場では、ショックを
受けました。
もしものことがあったときは、
できる限り早く見つけて差し上げたいと
色々動いてはいたし、
救急への対応のときのために
生年月日や名前、住所、
ご親族への連絡先などは確認
していたのですが、
お薬手帳や保険証、診察券の準備が
漏れていたのは悔やまれるところでした。
まぁ、あとでご親族が来て
見つけられたとのことでしたが。
問題は救急搬送された後のことで、
万が一の時に、延命措置はどうするか
ということを医師から聞かれたときに、
遠方のご親族は聞いていなかったそうで、
即答できなかったのです。
うちの母の時は生前からたびたび
その意向は聞いていたので、迷うことは
なかったのですが、大事なことですね。
一時の未練のために延命してしまうと、
莫大な治療費のことはもちろん、
機器類は外せなくなってしまうし、
本人も苦しむだろうと思います。
生々しい話をすれば、
母の時は、救急搬送時の人工マッサージで
肋骨はバリバリに折れていただろうし、
人工呼吸器のノズルからは、
血が出ていました。
去年、母が転倒して肋骨を折ったとき、
その後数か月してもその部分は
ずっと痛がっていたことを思うと、
その状態で生き延びるのは可哀そうで、
本人の意向がなくても、個人的には
延命はしなかっただろうと思います。
人によって、色々な背景があるので
一概には言えませんけれどね。
そんなこんなで、
自分がいなくなった後のことは
考えていたけれど、
それ以前に、自分の体が衰えてきたとき
どうするかを考えたことがなかったな、
と気づかされたのでした。
自分がどこまで生きるかわからないけれど、
日ごろから、何かあったときに頼る協力者を
作っておくことや、気づいてもらえる環境を
整えておくことなど、考える機会に
なりました。
実際、そういう準備が生かされない
成り行きもあるだろうけれど、
そういうことを考えて動く中で、
人間関係を作って行ったり、
具体的に、人生をより有意義にしていく
指針があるような気がします。
ある日突然、数か月で、とか、
体がままならなくなってからでは、
なかなかに難しいですからね。
これも、人生の先輩たちが
伝えてくれているメッセージ
なのだと思いました。