様々な方のセッションをしていると、
たまに、魂の深い深い願い
というようなものに触れることが
あります。
それは、今生ではなくて、
魂に刻まれたある人生の記憶の中で、
その人が切に願った望みです。
その望みが今生でも生きていて、
深いところでその方の人生を
導き続けているのです。
顕在意識レベルでは、
そんな願いのことなど知りもしないし、
それと現状がどう結びついているのか
さっぱりわからないか、
真逆のように見える状況だったり
することもあります。
それでも、その方の奥深くに眠る
この願いに触れると、あぁそうか、
だからこの方は…と腑に落ちることも
あるし、
たとえ今、成果が上がらなかったり
迷いの中にあったとしても、
この道で、間違いはないのだな、
とわかったりします。
そして、その願いに触れるのと同時に、
神は確かにその願いを聞いておられる、
というのも感じられるのです。
ある人生で願ったその望みを、
神はずっと覚えておられて、
今もなお、確かに導き続けている。
中には、まさに成就の時を
今生、迎える方もあります。
そんな場面に立ち会うと、
その人が歩み続けてきた魂の旅路に
込められた思いに触れて、
とても神聖な気持ちになります。
あらゆる混乱と迷いと苦しみの中で
もがいているときは気づかないけれど、
私たちは、ずっと大きな愛の中を
歩み続けているんですね。
そんなはずあるか!
と思う方もあるでしょう。
でも、辿り着くとわかります。
それがきれいごとのおとぎ話
ではないことが。
そういうところを見ていると、
結局私たちは、紆余曲折はあっても、
最高最善の結末にしかならないのだ
という気がして、
どこか深いところで私たちを導く力を
信頼する感覚が生まれてきます。
長い旅路の中では、
様々な願いを抱くでしょう。
表面的な、目先の願い、
全身全霊を込めてはいるけれど、
ややズレた方向性の願い、
怒りに任せた天に唾を吐くような願い、
心も体も魂をも貫くような、
いくつもの人生を越えて生き続ける
心底の願い、等々。
様々な体験を通して、その時々の願いは
私たちの在り様を映し、嘘偽りをあぶりだし、
引きはがし、本質に向かわせます。
時に願いは叶ったり叶わなかったりして、
その結果に私たちは一喜一憂し、
ご利益信仰や損得勘定などが
掻き立てられるでしょう。
中には、神を恨みに思って
閉ざしたり復讐のような気持ちを
抱く方もあるでしょう。
けれど、本当に見るべきところは
自分が思った通りのことが
叶ったのか叶わなかったのかという、
そこじゃないんですね。
神は損得で私たちを導きません。
もっと深い愛と気づきのレベルだけを
見続けています。
だから、ご利益信仰や損得で
神を捉えている人の概念では、
かみ合わないんですね。
そういう段階を超えたときに、
その人の人生にはぐっと違った景色が
見えるようになるでしょう。
あなたにも、今生その成就の時が
やってきますように。