答えを最初からもらっている
というのは、不幸なことですね。
最近、よくそんなことを思います。
答えが最初からもらえているなら、
間違えなくて済むし、余計な
回り道をしなくて済むのだから
効率的で良いことだ、と思う方も
あるでしょう。
マニュアル社会で自分で考えることを
しないように教育されてきて、
それに順応できてしまった人には、
それが至極当たり前の考え方
かもしれません。
けれど、それをどれだけ繰り返して
生きていても、自分の人生には
ならないのですよね。
答えだけもらって、確かにある程度は
無難に過ごすことはできるかも
しれないけれど、
最初から最後まで、そのようにして
一生を終えられるようには
なっていないのが人生というもの。
必ず、何かしら思い通りにいかない
状況を通過していくことになります。
それは、ひたすら平穏無事に
過ごせればいいだけの人にとっては
悲劇でしかありませんが、
これまでの解答集では対応できない
体験をすることによって、
その解答集を越えた可能性に
強制的に導かれるという意味で、
恩寵なのです。
解答集をインストールしただけでは、
その答えは有機的にその人の中で、
その人にとって意味のある何かを
形成しておらず、
ただ分離した状態で
Aという問いに対するBという答え
を意味なくはじき出すだけの状態です。
それ以上でも、以下でもないのです。
けれど、自らの思考と体験を通して
導き出した答えはそうではありません。
Aという問いに対する答え以上の、
無数の意味をその人の中で構築し、
より深いレベルで有機的に他の問いにも
連動し、広がりを見せていくような
働きを見せます。
自分で体験したものを語る人の力強さと、
人の体験の受け売りを語る人の言葉を
比べて見れば、その違いは自明でしょう。
他人からどれだけ正解の答えを
教えてもらっても、それが自分の中で
意味ある答えとなるまで検証する
プロセスが免除されることはありません。
そこが自分で越えられないと、
ずっと心の中で異物を抱え、
どこかで不信感や反発心を感じながら、
分離の居心地の悪さに苦しみ続けます。
そして、真に自分の人生を
生きることができずに、どこか嘘臭い、
空虚な、現実感のない人生を
誤魔化しながら生きていくしかないのです。
自分で問い、自分で答えを
見つけていける力をつけるような、
意識の持ち方をするように。
自分でやると間違ってしまうからと、
自分で考え、試行錯誤するプロセスを
放棄することのないように。
失敗したからと投げ出すのではなく、
失敗を糧にする精神力を
身につけましょう。
失敗したから終わり、ではないんですね。
この辺りの意識が圧倒的に足りてない
人がすごく多い、という気がしています。
心当たりのある方は、
ぜひ意識なさってみてください。