スピリチュアルな道を歩む方には、
しばしば使命感を強く持っている方が
いらっしゃり、それはとても素晴らしい
ことだと思います。
ただ、その中でもちょっと気になる
ケースがあって、自分自身のことを
疎かにして、他のために生きようと
されている方があります。
本人の中では自分を疎かにしている
つもりはないのかもしれませんが、
そういう方に特有のバイブレーション
の感触があって、
どこか奥深いところに抑圧があって、
何となく息苦しいというか、
自然でのびのびしていない感じ
なんですよね。
これまで何人もそういう方を
見てきたけれど、そういう状態で
活動をしても、一時は良いのでしょうが、
やがて辛くなってしまって
自分も周囲も楽しく豊かではない状態で
行き詰ってしまうことが多いように
拝見されます。
だから、
まずは自分自身が満たされていること
が大事とはよく言われますが、
本当にそこなんだと思います。
以前、大いなるもの、神に至る前に
自分自身に深く触れることが必須だと
書いたことがありましたが、
それと同じようなものです。
なぜ自分を疎かにして
他のために生きようとするのでしょうか。
自分自身の現実に深く対峙してしまったら、
辛すぎるから、そうしているのでは
ないでしょうか。
他の人の笑顔や感謝を向けられることで、
自分の中の痛みや空虚さを埋めては
いないでしょうか。
その在り方を否定しようとは思わないけれど、
もしそうだとしたら、そのやり方では
本当にはその痛みを埋めることはできない
ということはお伝えしたいと思います。
自分自身の内面のこともそうだけれど、
せっかく尽くしたその活動も、
根底の動機がそうであるなら、
その結果も、内容にも、本当に満ち足りた
質のものは宿らないのです。
だから、やればやるほど辛くなるし、
どこか違和感が出て、それが大きく
なっていくんですね。
故に、本当に誰かや何かのために
尽くしたいと思うのなら、
真に自分自身を癒し、満たすことを
まず先にやることが大切です。
もう一つ、別の側面からもお話しすると、
自分を犠牲にして何かを成り立たせる
というその在り方は、歪みを生みます。
たとえば、よくある
自分が我慢すればみんな丸く収まる、
という考え方。
一見それで表面的な調和は保たれる
かもしれませんが、そこにかかわるみんなの
気づきや学びの機会を奪うことになる
という面があります。
そして、その時は納得していても、
心の深いところでは、ほんの少しずつ
自分が傷ついています。
学びの機会を失った周囲の人たちは
あなたの犠牲に気づかぬまま、
それを当たり前として過ごしていたら、
あなたの心の奥底で蓄積していった傷は、
やがて耐え難い不快感から怒りになり、
恨みに変わっていくでしょう。
そのようにして考えると、
自己犠牲は必ずしも尊く美しい行為
とは言い切れなくなると思います。
どうぞ、本当にこの世界を良くしていきたい
と願うのなら、その素晴らしい世界の中に
自分自身も笑っているビジョンを
忘れずに入れて活動なさってください。