何事も、現場の生々しい空気感、
その場にいる人たちの心の動きに
触れることは大事だな、と思うのですが、
これは感情解放ワークにも
言えることです。
セッションで私が見ている一番
重要なポイントは、その人自身が
自分の感情に触れているのかいないのか、
というところです。
自分の感情に触れる、というと、
自分の感情なのだから触れているのが
当然だろうと思われるでしょう。
けれど、実際は
辛すぎて気がおかしくなってしまったり、
生きていけなくなってしまうのを避けるために
感情の自分を切り離していることが
よくあります。
感情のエネルギーと、自分の意識が
少し浮いているとか、異次元に飛んで
逃げているとか、
膜が一枚、間に挟まっているような感じで、
まるでゴム手袋をつけて触れている
かのような状態になっていたり、あるいは
単に飲み込まれていたりするのです。
だから、その状態で感じているとしても、
怒っていたり悲しかったりしている
自覚はあっても、
どこか他人事のようにそれを眺めていて
生々しい現実の実感はなかったり、
ひたすら浸っているだけだったりします。
その状態だと、癒すこともできないし、
統合までもっていくことはできません。
だから、いかに辛い感情であろうとも、
飲み込まれずに自分の意識を
しっかり持って、それに触れていく
ことが必要なのです。
それを安全にするための、
ワークの様々な手法があるわけです。
深い悲しみや怒り、憎しみ、絶望など、
重苦しいスペクトルの感情は
色々ありますが、
たとえば、千年の恨みを解いていくにも、
まさにその「現場」に降りていきます。
どうしてそこまでの恨みを抱くに
至ったのか。その背景には、
筆舌に尽くしがたい痛みが
あったはずです。
それを知らずに、大上段に上から
さらっと癒しを送っただけで、
その恨みが解けるでしょうか。
何も知らないのに、結論ありきの
予定調和に無理やり持っていこうとしても、
恨みのエネルギーは納得しません。
表に現れている恨みをなくそうと
働きかけようとすると、
そういうやり方になりがちですが、
本当に働きかけるべきは、
その奥にある痛みなんですね。
けれど、
表面の恨みのおどろおどろしさに
良くないもの、というジャッジメントが
あったり怯んでしまうと、その奥にまで
意識を向けて踏み込んでいくことが
できません。
触れていくにも、飲み込まれず、
けれども第三者的な、他人事のような
スタンスで触れるのでもなく、あくまで
その感情の当事者として触れていきます。
ネガティブな感情に対して、
それを持っていると自分がけ汚れてしまう、
ダメな存在になってしまうと思う方も多く、
当事者であることから自分を切り離さないと
いられない方も多いです。
悪いものを無くして、良い存在になろう
という考え方ですね。
けれど、ワークでは、深い闇も光も
清濁併せ吞んだ先の光まで突き抜けていく
ことで統合していくので、当事者意識
がないと、統合はできないのです。
当事者であるならば、触れられるのが当然
ですが、当事者として認めないから
触れられない、というのもあるんですね。
如何に切り離そうと、すでに
それに染まり切って苦しんでいる自分が
自身の内のどこかに居るわけで、
見ないふりをしても、それが
なくなることはありません。
その苦しんでいる自分に対して、
どこまで本気で向き合い、
誠意をもって応答することができるか。
感情解放ワークというのは、
単に苦しい感情が消えて無くなることを
目的としているわけではなく、
そういう自身の苦しみに、
自分が本当に逃げずに受け止められる
肚と矜持を持った自分になるという
在り方そのものの変容が
含まれているのです。