私たちはこの世界に生れ落ちて、
様々な経験をします。
それらをどんな風に体験し、
受け止めるかは、人によって
本当に様々です。
同じ時に同じ場所で同じように
体験しても、ある人はすごく楽しかった!
と言い、また別のある人は、
ひどい体験だった、と言います。
つまり、すべての人にとって同じように
幸せな体験、不幸な体験というような
絶対的な体験というものはなく、
それを受け止める側次第なわけです。
幸せを拒絶している人や、
幸せを感じられない、それと認識できない
様な心の状態であったら、
どれだけ外部条件を整えたところで、
その人にとっては何も感じられないか、
不幸な体験としか捉えられないでしょう。
真心を込めた温かなお料理を出されたとして、
その真心を感じ取れない心で食べたら、
特に何の味気もなく、ただ物理的に
おなかを満たすだけのものにしか
ならなかったり、
逆に、悪意を込めた接し方をされても
そこに何の意味も見出さず、
それ以上でもそれ以下でもないので、
心も傷つかずに済むのかもしれません。
過酷な環境で生き抜くためには
その方が都合が良いというか、
そうせざるを得ないところも
あるのでしょうが、
その代償は非常に大きく、
人間として本来あるはずの
内なる神を知る感覚が閉ざされます。
だから、「御霊磨き」ということが
言われるのですね。
それは、何か仰々しく神事のまねごと
のようなことをするから磨かれる
のではなく、
内なる神が確かに自分の中心にいる
ということがわかる感性を磨く
ということです。
人間の尊厳というのは、その神を
自分を通して体現して生きること、
あるいは、他者の中にそれを見て
言い表した言葉ではないかと思います。
磨かれた感性では、
日常の様々な場面の行動の質が
変わってきます。
たとえば、掃除をするとき、
曇った感性で掃除をすると、
それはただのこなせばいいだけの
作業になり、
掃除の前も後も、その人にとっては
感覚的にきれいになって気持ちいいとか
汚れていて気持ちが悪いと感じなく
なります。
そんな感性で掃除をしても、
完了した空間は、「整った清浄さ」を
感じられないでしょう。
整った清浄さとは、きれいに掃き清められた
神社の境内のような、清々しいあの感じ
のことです。
比叡山では掃除地獄と言われる修行が
ありますが、落ち葉1枚、埃ひとつ許されず、
終わりのない徹底的な掃除が日々続けられる
そうです。
それは、
ただ潔癖症になる修行というわけではなく、
そういう行為を通して心の鏡を磨いて
いるんですね。
最近では、「整う」というと
サウナ用語になっていますが、
心身がピタッと良い状態に定まる感覚を
そう表現しているのかもしれません。
さて、あなたの心と体、御霊は
整っているでしょうか。