節分前の浄化と調整もぼちぼち完了して
仕事も再開しております。
ここまでの体調不良は近年なかったので
ひたすら寝るっていうのもいいもんだな、
と風邪を満喫しておりました。笑
で、この間に色々と気づきがあったり
体調不良をネタにワークをしてみたりと
それなりに充実した毎日でした。
中でも長年患っている副鼻腔炎をワーク
してみたときに、なかなか面白い
気づきがありました。
いわゆる蓄膿症ってやつですが、
苦しんでいる方も結構多いようですね。
私のは頭が痛くなったりぼーっとしたり
というのはないのですが、ただ煩わしい
というのはありますね。
医学的にはどうしてこういう症状が起こるのか
わかっていないそうなのですが、
あらゆる身体症状は内面的な要因も
絡んでいるので、ワークしてみたところ、
幼少期から現在に至るまでのあらゆる
混乱した気持ちが出てきました。
なるほど、ここにつながってくるのね
って思ったわけですが、
子供の頃に体験したものすごくショックなこと、
辛かったこと、混乱してどうしたら良いか
わからなかった気持ち、不安、恐怖、
緊張、悲しみなどなどのエネルギーが、
蓄膿症の膿から感じ取れました。
全ての人が同じなのかはわかりませんが、
少なくとも私の場合は、そうした未完了の
感情のエネルギーがここに蓄積していたんですね。
出てきたカケラ君たちを眺めながら、
私は子供の頃から、この世界を本当に
恐いところ、辛いところ、悲しいところだと
思いながら生きてきたんだな、と思いました。
本当に毎日毎日、子供の頃の私は
生きているのがすごく辛くて、
縮こまりながら生きていたような気がします。
今思えば、そんなにも苦しみながら
生きなくても良かったはずなのに、
それでも生きることにおびえながら、
良くここまで生きてきたな、と思います。
その苦しさ、辛さ、悲しみ、惨めさなどが
私のこの世界に対する感じ方のベースに
なっていて、
そこからどれだけ浮上したかが
私の幸せの基準になっているのだな、
ということを改めて確認しました。
あのころに比べれば今は格段に幸せで
平安な毎日ですが、
子供の頃から世界が楽しいところ、
素敵なところだと思って生きてきた方
からすると、随分世界の捉え方も
違っているのでしょう。
もちろん、私よりもずっとハードな
生い立ちをされている方もあるでしょうし、
みなさんそれぞれの背景の中で捉えた世界に
生きているのは当然です。
とにかく、蓄膿の中に
そうした世界で体験してきた諸々の未消化の
感情が宿っていたというのは、私にとっては
すごく衝撃的な気づきでした。
世の中の諸々のうまくいかないこと、
自分にはできないという、
固いしこりのようになった思いが
そこにはありました。
思い返せば、すごく馴染み深い、
何度もぶち当たってきた思いです。
それは時を超え、場面を変えて、
仕事や恋愛や霊性の旅路においてさえも、
何度も何度も繰り返し現れてきていました。
私にはできない。
何度その思いに絶望を味わったことか。
どんな分野であれ、努力して、工夫しながら
道を探し、壁を越えてできるようになってきた
こともたくさんあります。
それでもなお、この思いを抱えて
遠く放り投げたままのことも
確かにありましたね。
今生では、あるいは、半永久的に
半ばもう諦めていること。
諦めているという状態は、
望みはまだ私のどこかで生きていて、
でもそれを無かったことにして蓋をしている
ということなのだけれど、
私は望みが自分の中で生きている
ということを認めてもいいだろうか?
それを許せるだろうか?
かつて味わった失望の記憶を受け止めつつ、
その問いに「Yes」と答えました。
望みにべったりと貼りついている
深い悲しみとショックのエネルギーを
しっかり受け止めないと、
望んだと同時にその痛みがやってくるので
望むこと自体が苦しみになってしまいます。
だから、そこをセパレートするには、
どうしてもこの痛みを受け止めることを
通過しなければいけません。
望みが叶おうとすると自らそれを
ぶち壊すようなパターンを持っている人や、
なぜか望みが最も叶いにくい選択ばかりを
無意識にしている人は、この構造を
持っている可能性があります。
過去世から持ち越していることも多いので、
なかなかに根深く痛みの深いものだったり
しますが、少しずつでも統合していくと、
失敗を自ら選ぶパターンも変わっていくと
思います。
で、ワークを進めてみると、私の蓄膿の方も
途中でずるっとたまっていた膿が出てきて、
やっぱりつながってるのね~と実感。
まだまだ入り口ですが、諦めの蓋で
切り捨てたものをお迎えに行かねば
と思いました。