人それぞれ、様々な世界観を
持っているものですが、
人によって、この世界は
楽しく優しいところだという
感覚を持っている人もいれば、
この世界は地獄だ、殺伐としていて
あらゆる極限の醜さの掃きだめのような
生きるに値しないところだという
感覚を持っている人もいます。
そして、同じ世界を生きながら、
それらの人々は、自分の世界観通りの
現実をそこで生きるのです。
彼らがそのような世界観を
持つに至るには、それなりの
裏付けとなるような実際の体験を
してきたのでしょう。
それら実感を伴った生々しい体験が、
さらにその思いを強化させ、
真実の重みを持って強化されていきます。
確かに、その世界観は嘘ではないのです。
その人にとっては紛れもない真実で、
自身の体験を通して証明されてもいます。
けれど、他の人にとってそれが真実か
というと、それもまた違うでしょう。
何がそこまで、同じ場所を
違う世界に見せるのでしょうか。
固くこわばって、引きつれた心で
ガタガタ道を行けば、歩くたびに
体に痛みが走り、苦痛に体も心も歪み、
絶望的な気持ちになるでしょう。
一方で、柔軟で弾力のあるはつらつとした
心で同じ道を行けば、ガタガタの刺激も
アトラクションのように楽しんで、
冒険心を掻き立てられるかもしれません。
体験の刺激を受け取る心の状態が
どうなのか、によるんですね。
同じ言葉をかけても、
被害者意識を掻き立てられる人もいれば、
気にもしない人、誉め言葉に取る人など
様々いるのは、
受け取る人が辿ってきた歴史、
心の背景によるのです。
もし、あなたが今、この現実を生きることが
辛いのならば、辛いと感じている心の方に
対処してあげることが必要かもしれません。
環境を変えることも大事ですが、
傷つき、固くなった心で
どこへ行って、誰と付き合おうと、
傷が癒えていないければ、
また同じ痛みを感じるでしょう。
子供の頃からそうした痛みとともに
生きていると、世界とはそういうものだ、
と思って、それ以外の世界があるなんて
イメージすらできなかったりしますが、
人生の奥深いところでずっと響いていた
馴染み深いその痛みも、ケアすれば
薄らぎ、やがて消えていく時が
やってきます。
誰も助けてくれない、無関心で、
孤独で淋しい、悲しく、怒りを通り越して
諦めしかなかったその心模様も、
うっすら明るくなってきて、
かつてほど淋しく無くなったり、
いつの間にか悲しみが消えていることに
気付いたりします。
落ち込んでも、かつての無明の闇、
絶対に這い上がれないように感じていた
絶望も過去のものになり、そこまで
落ちなくなって、気分の平均値が
上がっていきます。
そういうことを繰り返して、
気が付いたら、自分が随分と優しい世界で
機嫌良く笑っていたりするのです。
人間、落ち込むと
目の前の扉も見えなくなり、
救いの蜘蛛の糸が顔の前に垂れてきても
掴む気力すらなくなってしまったり
しますが、
絶望している自分も自分、
元気はつらつな自分もまた自分。
その自分だけが自分だけでは
ないのですよね。
いくらでも、違う自分の可能性が
隠れています。
気持ちが落ちていても、
できる限り、意識を広く可能性に
開いておきましょう。
もう終わりだ、と思ったところから、
まだ続いている道があるのですから。
深く、命の呼吸をして、
この瞬間、自分とともに在るように。