諦めは感情の蓋、と
ワークではお伝えしているのですが、
何もかもが思う通に行くわけではない
人生、時に現状を受け入れざるを
得ないこともあるでしょう。
ただ、諦めは鼻をつまんで
臭いものに対処するように、
深いところでは受け入れては
いないんですね。
本音では受け入れていないまま、
目の前の現状に接している、
という点で、それは感情に蓋をしている
状態と言えるでしょう。
諦めているのか、受け入れているのか、
この二つは大きく違います。
このテーマで思い出すのは、
私が勝手に師と仰いでいる
深く目覚めた意識のマスター、
レナード・ジェイコブソンの
あるセミナーでの言動です。
日本で行われた何度目かのセミナーで、
休憩が終わった後、照明の位置が
変えられていて、彼にはとても
まぶしかったようなんですね。
それで、何度か照明を調整するよう
指示をしたのですが、結局
うまくいきませんでした。
見ていて、結構こだわるんだな、
と思うくらいに割としつこく
指示を出していたのですが、
調整が難しいとわかると
それまでの執拗さからすると
驚くくらいあっさりと、
もういい、始めよう、と
投げやりな様子でもなく、
ごく穏やかに言って、
本題に入っていきました。
何でもないセミナーの一幕
だったかもしれませんが、
彼の言動はその時は不可解だったり
納得できないこともあるのですが、
後になって、そのことがすごく
学びや気付きになっていることが
あります。
これほどの覚者でもこうなのか、
と思った出来事もいくつかありますが、
だからこそ、なのだと理解したり。
そのときは不調和に思えることも、
もっと深い目で見た時に、まさにそれが
最高最善だったとわかるんですね。
照明の件も、自分が納得いかないのなら
きちんと声を挙げ、自分のニーズを
表現することの大切さと、
(これは彼のセミナーやリトリートで
常に言われ、実践を促されていたことです)
結果にこだわらず、行動すること、
そして、やるだけやったら、
その結果を受け入れることを
見せてくれたのだと思います。
彼はこういうことを意識して見せた
わけではなく、ただプレゼンスに在った
だけなのでしょうが、
まさにその場にいてそれを目撃した
私には、貴重な教えとなりました。
結果にこだわらず、自身のニーズを
きちんと応答することは、
自分自身に対する責任です。
それを果たしたからこそ、
結果を受け入れることが
できるのでしょう。
そもそも、その責任を果たさず
飲み込んで諦めるのとは、
たとえ結果が同じだったとしても、
その出来事の意味は違います。
私たちは、どれだけ自分への責任を
果たさぬままに飲み込み、諦めたことを
溜め込んでいるでしょうか。
それが、どれだけ自分を傷つけ、
人生を歪ませているでしょうか。
諦め癖のある方は、
心の奥底に深い絶望や無力感などを
同時に抱えていることが多いですが、
そこから、生きる気力が漏れ出て
いってしまっているのですね。
心のひび割れを塞いで気力を溜め、
しっかり自分のために行動できるように。
諦めの奥には、どうにもならなかった
苦しさがあるのでしょうが、
遅かれ早かれ、向き合うべきタイミングは
来るでしょう。
絶望を越えて、あなたに再び
生きる喜びが戻ってきますように。