日々セッションなどで、
様々な人の心の在り様を
見つめていますが、
人が誰かや何かに向き合うときの
在り様を見るのは、いつも
とても興味深いと感じています。
その人が何にどれだけ
向き合えているのか。
逃げているのか。
その自分の在り様に、
本人がどこまで気づいているのか、
いないのか。
気付いているのだとしたら、
そのことに対して、本人がどう捉え、
どうしようとしているのか。
逃げていることを指摘されたら、
それに対してどう反応するのか。
指摘されたことをきちんと受け止め、
検証し、自分の感覚に照らして
判断できるのか。
検証もせずに鵜呑みにし、
自分の正確な現状も捉えないままに、
指摘されたところを直そうと
走り出すのか。
実際に
その指摘が事実だとわかったとして、
認められるのか、認めることに
抵抗するのか。
そういうところを逐一見ると、
その人がこれまでどれだけ
実のある修練を積んできたのかが
わかりますね。
自分の見栄や体裁、都合やプライドよりも
常に真実を最優先にする在り方が
できていれば大したものだし、
それができるには、
真実を受け入れることによって起こる
いかなる苦痛も動揺、混乱も
引き受けられる自分でなければ
なりません。
それができないから、
真実を自分の都合で捻じ曲げ、
なかったことにするとか、
切り捨てる、触れない、
感じないようにするということをして、
向き合わないのです。
どんな人でも、
深く向き合えるテーマもあれば、
それがどうしてもできない
というテーマもあるでしょう。
同じ人の中にも、
向き合えることの濃淡はあります。
そしてまた、どれだけ
向き合えずにいることの
ボリュームが心の中にあるのかで、
その人の感覚の鈍さ、歪み、狭さ、
浅さが違ってきます。
そのボリュームが小さく少ないほど、
その人の感覚は広く、鋭く、深く
なっていきます。
奥深いものを味わえる人生を生きたい
と思うなら、今の自分がどれだけ
嘘偽りなく、ものごとに向き合えて
いるのかがわかるような、意識の使い方、
在り方をしていなければいけません。
たとえば、子供や親、友人知人などに
自分が言い訳せず、逃げもせず、
真っすぐに向き合えている、と
頭ではなく、自身の在り方を通して
感じられているのでなければ、
それはやはり、向き合い切れて
いないのです。
本当に深く向き合うからこそ、
伝えられる言葉や思いがあるし、
そういう姿勢を感じられるからこそ
受け入れられる、気付かされること、
響くことがあります。
そして、そういう姿勢で
日々を生きているから
出会えるご縁、見えてくる景色、
味わえるものがあります。
周囲にそういう人が居ないからとか、
そういう環境がないからとかの
話ではなく、
それは、ただ黙って一人でいても
できる在り様のことなのです。
今、あなたは、
自分自身の人生に、命に、
どれだけ向き合えているでしょうか。
自分の後姿には、
どれだけの説得力があるでしょうか。
自分自身の在り様を通して
語れるものがあったら良いですね。