11日の満月のオンライン瞑想会と
21日の夏至の瞑想会、
まだまだ絶賛募集中です!
さて。
人生、生きていれば
辛いこともあるし、夢のような
幸せな時もあるでしょう。
そんな中で、辛いときの過ごし方、
苦しいことに対する向き合い方で、
その人の器のようなものが
見て取れるな、と思ったので、
今日はこの辺りのことについて
思うところ、書いていきます。
昔は、若い頃の苦労は買ってでもしろ、
なんて言われていましたが、昨今は
どうなんでしょうね。
敢えて買わなくても、
しなくても良い苦労なら、
しないで済んだ方が幸せ、みたいに
考える方が多いのかもしれません。
私自身、わざわざ苦労に突っ込んでいく
こともないかな、とは思いますが、
ただ、起こってしまった出来事、
やってきた状況には、逃げずに向き合おう
とは思っています。
まぁ、それだけでもお腹いっぱいには
なりますけれどね。笑
けれども、
様々な方のセッションをさせていただいて
たまに出会うのが、苦しいことからは
徹底的に逃げる、避けて通ろうとする方で、
様々なタイプがあるのですが、
総じて言えるのは、そういう方たちは
ものごとを深く見ることができない
ということです。
苦しいところに触れそうになると、
反射的に意識をそらすので、
ストレスのかかる状況に意識を留めて
的確に状況を見て取り、応答する
ということができないんですね。
そうなると、
必然的にその人はものごとの
当り障りのない表面的なレベルしか
見ることも触れることもできないので、
解釈、思考法、行動もひどく上っ面の
浅いレベルでのものにしかなりません。
人間関係にせよ、あらゆる探求にせよ、
じっくり深めていく喜びというのが
ないんですね。
そうなると、そういう人は、
表面的に手っ取り早く気持ちよくなれる
刺激に飛びつきがちになります。
目先にきらびやかなもの、
わかりやすい華やかさ、お手軽簡単、
手に入れやすいものでないと、
その価値がそもそも理解できないんですね。
食べ物に対する味覚と同じで、
どぎつい人工的なわかりやすい甘さや
化学調味料のうまみに慣れてしまうと、
自然の複雑で繊細な味がわからない、
それを味わう味覚が育っていないのと
同じようなものです。
苦しさの手前で引き返しているので、
苦しさに堪え、昇華させていく
そのプロセスを知りません。
だから、その昇華のプロセスで
どんな体験があり、変容が起こっているのか、
想像もできず、まして自分事のように
追体験して理解するということもないので、
何かを見たり触れたりしたときに、
その奥にどれだけの奥行きの諸々があって
それがそのように在るのか、ということに
思い至らないのです。
苦労して、その体験を自分なりに
昇華させてきた人は、苦労の渦中にいる人の
痛みや苦しみがわかるでしょう。
そして、その苦しみをいかに昇華していくのか、
その人の辿る道を思って、適切に寄り添い、
支え、見守ることもできるでしょう。
苦労はただすればよいというものではなく、
いかにそれに向き合い、昇華させてきたのか
が大事です。
苦しいのは嫌だ、とただ逃げ回るばかりでは、
育つものも育たず、薄っぺらな人間性
にしかならないのではないかな、
と思うのでありました。