何が正解とか不正解ではないのだけれど、
自分が決めた選択によって、
そのゴールに至るまでの道が
自ずから制限され、決まって来る、
ということを考えました。
たとえば今年亡くなった私の母は、
どのような形になっても、
自分の生きている内は、店と
家を守り通すというのが多分、
最優先で動かせない選択でした。
だから、早めにリタイアして
悠々自適に後は好きなことをして
生きていくとか移住などという選択は
ありませんでした。
一緒に暮らしていて、
そんな母に対しては好きにすればいい、
私は私で好きなようにするから、
と思っていたと思います。
けれど一方で、その母の選択故に
色々制限も生じて、悩み苦しんだことは
確かです。
結果的に、今の形で落ち着いたので、
それはそれで良かったのだろうし、
それも含めて、私の魂の計画だった
のかもしれません。
また、二十数年前に亡くなった父の時は、
やはり最優先は店を続けていくこと
だったので、父も相当に苦悩したと思います。
父は他に生き方を知らなかっただろうし、
それが父の運命だったのだろうと
思うところもあるのですが、
家族として暮らしていて、
父の苦しみはどこかで私にも
確かに影響を与えていました。
これは動かせないというものを
がっちりと持っていることで、
自ずから決まっていく未来があり、
それは周囲にも避け難く影響を与えるのだ
と思うのでした。
そして今、私は命の願いに照らして
その人の現在の在り方がどうなのか、
という視点を持つようになり、
その観点から見ていくと、
どうしても外せない、動かせない
と思い込んでいるその要素が、
命の願いに必ずしも合致したこと
ではないケースがある、ということを
見て取るのです。
命の願いの指し示す導きは、
時に本人に深い葛藤と恐れ、苦悩を
もたらす方向に歩みを促すことがあります。
それに応えることは、非常に勇気と
鍛錬、様々なレベルでの手放しや解放、
変容を経なければいけないこともあります。
そうであってもなお、導きに従った方が
最終的には、本当に良かった!と心から
思える結果にはなるのですが、
目先だけを見ていると、
それはまるで地獄への誘いのように思えて、
恐ろしくて足がすくむのです。
そんな恐れを越えて導きを選ぶには、
本当に深く自分自身の命に向き合い、
本質はどこにあるのかを見て取る眼差しと
その本質にコミットメントする
意志が必要です。
目先の安寧が最優先の目的だと、
導きを選ぶことはほぼ無理でしょう。
そんな恐ろしい選択に比べたら、
目の前の不平不満を握りつぶして
蓋をする位は可愛いものです。
そもそも本質を生きることなど
求めてはいないのだから、
試練を越えて行こうという動機が
ありません。
導きを生きることは、
何となくそうした方がお得だし安心だから、
格好よく見えるし気分が良いからする、
みたいにファッションではありません。
その呼びかけが深いところで
どうにも止まず、歩みを止めることが
できないからそうするのです。
導きを選ぶにしても、選ばないにしても、
どちらも葛藤はあるでしょうし、
周囲に及ぼす影響もあります。
ただ、導きがもたらすものは、
それを通して自分も周囲も、成長させ、
本質に向かっていくような働き方をします。
自分が逃げているところも
嫌と言うほど見せつけられるだろうし、
一番弱いところを突かれるような
試練もあるかもしれません。
けれど、それもこれもみな、
自分の悪い癖や歪みを修正していく過程で
避けて通れないところなのです。
それを自覚し、逃げずに応え続けて
行くからこその変容であり
成長なんですね。
そういう自身の歩みへの信頼が、
周囲への信頼となり、ともに未来を
開いていく希望となるのです。
何を選ぶにせよ、
この人生、後悔のないように。