草木国土 悉皆成仏
(そうもくこくど しっかいじょうぶつ)。
人間だけでなく、草木や石ころにまで
仏性を見る日本独特の仏教観の表れた
言葉ですが、私はこの言葉が大好きです。
仏性というのは、私の言葉で言うと
「命」に近いかなと思うのですが、
そうなると、私の命の概念、定義は
世間一般で言う命とは少し違うのかも
知れない、と気づきました。
そんなことを考えつつ、
先日ある方から「無門関」のお話を
伺いました。
無門関と言うのは、中国宋代の禅僧
慧開(えかい)によって著された公案集です。
48則ある公案の第一則に、
「趙州狗子(じょうしゅうくす)」という
お題があります。
犬に仏性があるか?
と問われて趙州和尚は
無。
と答えます。
この和尚は、お釈迦様の教えを
知らなかったのでしょうか?
否、そんなことは百も承知で「無。」
と答えているのです。
なぜ「無。」なのか。
頭でどんなにひねくり回して
どんな答えをひねり出そうと、
そういうところからこの公案の答えは
出てきません。
すべて正しくないのです。
公案は、覚者と同じ視座を得るための
道標の一つです。
答える者が、同じ視座に立って
答えるのでなければ、たとえ正解と
同じ答えを返したとしても、
印可は与えられません。
その視座を得た者には、答える者が
その視座に在るのかないのかは
明確にわかります。
解説本をどれだけ読破して
わかったつもりになっても、
それでは絶対にこの関所は通れないのです。
古来、数多の禅僧たちがこの関所を
通るために、己が道のすべてをかけて
挑んできました。
以前、何かで問答の様子を見たことが
あったのですが、このお坊さんたちは
「たかが問答」にどうしてこんなに
真剣に叫び合っているのだろう?と、
無知にもほどがある感性で、
滑稽だと思いながら見ていました。
けれど、本気で道に挑むからこその
その気迫であったと後に知って、
そうだったのか、とやっと理解したのでした。
今の多くの学校教育のように、
正解集を丸暗記して正しく答えれば合格
といったような世界ではなく、
ヒントも何もない中で、0から道を
自分で切り開いていかなければいけない
厳しい世界です。
自分で望んでその道に入るわけですから、
言い訳などできません。
自分の歩む道のすべての責任を
自身で引き受けて、行くわけですね。
教えてくれて当然ではないし、
どこかに正解集が用意されている
わけでもありません。
何をどうしたらよいのか
さっぱりわからない五里霧中の状態から、
自分がどう歩めばよいのかわかるような
感性を叩きあげて行かねばなりません。
失敗も絶望も堕落も栄光も、すべて
自分が望んで、自分の責任で種を蒔き、
得た結果です。
教えてくれないと嘆き、すね、いじけ、
腐っているようでは、道は成りません。
向き合えば、
その人が自分の歩みに対して
どういう姿勢であるのか、
どんな歩みをしてきたのかは
ある程度わかります。
そこに一切の言い訳なく肚ができている人と、
依存や言い訳、恐れで腰が引けている、
責任転嫁しているなど、
隠しようもありません。
歩み方、問い方が違うのです。
すべての人がそうである必要は
無いけれど、
自分でその道を選ぶのなら、
そしてその道を歩んでいるというのなら、
それなりの在り方があるだろう
と思います。