一昨年の夏に始めたお能の稽古、
グダグダながら、ぼちぼち続けています。
本当にできないのに片手間の
「お素人さん」のお稽古なので、
毎回、お稽古日が近づいてくると、
慌てて謡本(うたいぼん)をひっくり返して
付け焼刃のおさらいをするのでした。
本当は、もっとおさらいや予習を
しっかりやって、ある程度土台が
頭に入ったところからの細かいところを
学んでいくのが本当というか、
先生は多分そういうお稽古を
されたいのだろうな、と感じつつ、
なかなかその域に達しない自分が
申し訳なく、毎回必死で付け焼刃を
焼き直しています。汗
ものごとを習うときにしばしば感じるのは、
自分がどこまで先生の引き出しを引ける
習い方をしているだろうか、ということです。
引き出しを引くまでもなく、そのずっと手前で
あたふたと玉砕している段階では
どうしようもないのですが、
少しでも何か受け取れるような
土台ができつつあるのを先生が見て取って
くださったかな、と感じるとき、
いつもより少し濃い目のエッセンスを
注いでくださり、受け取れたかな、
と感じるときもあります。
教える側は、存分に受け取ってくれる
器の存在を求めているのが、本当は
世の常であり、
そういう器はいつの時代も
絶対的に不足しているもの
なのかもしれません。
私自身、教えるというか、
様々なメッセージやアドバイスを
お伝えする立場にある時、
もったいぶっているわけではないのですが、
お伝えできるときと、そうでないときが
確かにあります。
頭でこれはまだ言えないとか、
これは伝えてもいいとか考えている
わけではなく、
ただ聞こうとする人に向き合ったとき、
自然に言葉が出てくるときもあれば、
どんなに伝えようとしても、詰まって
言葉が出ないことがあるのです。
また、色々なことをお伝えする中で、
自分でも思ってもみなかったことについて
お話しする流れになっている時もあり、
後で、或いは話しながら、
へぇ~、そう考えてたんだとか、
そうなっていたのか、と自分で
感心している時もあります。
自分の引き出しの中にあっても、
形になっていなかったり
認識していなかったものを、
問うてくださる方が引き出して
くださったのですね。
レベルが高いとか低いとか、
そういうことではないのですが、
ここがわからない、と言われれば、
どのようにお伝えしたら伝わるだろう?
とその方の意識のポジションに合わせて
試行錯誤するのも楽しく、発見があります。
一方で、どうやっても伝わらない、
受け取られない言葉になるときも
確かにあって、
その場合は、絶望で諦めるのではなく、
未来に向けて、種を蒔きます。
今は全く嚙み合わなかったとしても、
いつかその方がそのポジションに立った時に
芽吹くように、その方の魂を見て、
妥協なく今蒔いておくべき言葉の種を
お渡しするんですね。
その方がその時その種をどのように
扱ったとしても、それには頓着しません。
種は、種の未来を宿して
ただその人の土に沈んで時を待つでしょう。
それが案外早く芽吹く時もあれば、
何年も後、あるいは、今生ではないのかも
しれません。
それでも私は、その時自分がやるべきことを
果たすのみです。
そのようにして託された種が、
私にも、あなたにも、
無数にあるのでしょう。
善き種が芽吹くように、
今日も精進です。