8月もそろそろ終わりのこの時期、
我が家の家庭菜園では、
夏野菜のプランターを整理して、
次に蒔く秋野菜の種のための
準備をします。
勢いのなくなったトマトも、
上部の枝や根っこをきれいに除いて
石灰や肥料、改良剤を混ぜ込んで、
しばらくの間、寝かせておきます。
まだまだ残暑の続く中での作業なので、
少しずつ進めています。
種を継いでいる野菜は、
古い種も残っているのですが、
3年分くらいは念のために残して、
あとはコンポストに混ぜてしまっています。
やはり古いと発芽率も大分落ちますし、
芽が出ても勢いがないですからね。
まだ出るかな?と思いながら
多めに蒔いてみて様子を見ることも
あるのですが、収量は全然違ってきます。
だから、残しておきたい種は、
やはり蒔いて育て、種を採り続けないと
いけません。
種のまま、年を重ねては行けないんですね。
そんなことをつらつら考えて、
不思議だなぁと思うのです。
人間はじめ、動物も、
同じ個体が何百年、何千年と生き続ける
ことはありません。
己の生きた証をDNAに刻んで、
子孫につないでいきます。
なぜ代替わりしなくてはいけないのか。
永遠の命と言うけれど、
それは繋いでいくことで得られるもので、
若さも老いも、諸行無常、盛者必衰の理
という自然法則の必然の一部です。
変わらないから永らえるのではなく、
変化して行くからこそ、
よりダイナミックに命の営みを
無限に繋いでいけます。
老い、衰え、終わることは
人間感情としては不安や恐れの対象
となりがちですが、
それすらも、本当は新たにやってくる
みずみずしい新生のための準備とも
言えます。
幼きも若きも老い衰える時期も、
その時期なりの意味を良く受け止め
生きることで、そのサイクルがより美しく、
意義深いものになるように思います。
自分を含め、
様々な人のエネルギーを読んでいると、
受け止められず、停滞し、しこりに
なっているようなエネルギーが誰にでも、
多かれ少なかれ必ずあります。
言ってみれば、
永遠の命のサイクルに逆らって、
分離し、外れてしまった人生の一部です。
そういうものが、私たちの命を歪め、
健全さを失わせていくのです。
終わるべきものは終わるべき時に
終わらねばならないし、
生まれるべきものは、生まれるべき時に
生まれなければなりません。
私たちはどれだけ、
ある特定の姿を恐れて拒絶し、
あるいは特定の段階に執着して
命をいびつに歪めているでしょうか。
ただ在るがままに
やってくるものを受け入れ、
去っていくものを見送り、
そのどの変化も愛でて生きる感性を
持っていたいものです。
それは、
死生観にもつながっていくと思うのですが、
そうしたものが成熟していないと、
生きることが何か、とても宙ぶらりんなものに
なってしまいそうな気がします。
どれだけ必死に老いること、弱っていくこと、
衰えていくことを避けようとしても、
それは命の理ゆえに避けられるもの
ではありません。
それなのに、それが
忌むべきこと、悪いこと、恐ろしいこと、
在ってはならないことになってしまったら、
そのタームに入った途端に人生は
行き詰ってしまいます。
だから、それらを恐れて
身動きが取れなくなってしまう人は、
脈動する命の自然なサイクルを
思い出すことです。
私たちは、永遠の命の潮流を生きていると。