奇想天外、摩訶不思議なのが人生。
一体誰がこの人生をこんな風に
なるようにしているんでしょうね?
古今東西、様々な文化圏で
その理由が解釈されてきましたが、
それが何であれ、確かに私たちの人生を
こんな風に導いている力はある、と
私は感じています。
自分自身についても、
その深淵なる力の意図を
感じたことはあるし、
クライアントさんのセッションを
させていただく中でも、しばしば
それを感じることがあります。
それは、とても近視眼的で
視野狭窄気味の人間の意識では
到底計り知れないような、
壮大で不思議な眼差しなのですが、
その片鱗に触れた時、
ずっと報われないと思い続けてきた
無数の魂の旅路の歩みが、一気に
報われたような気持ちになりました。
この眼差しの中で、
私たちは人生を紡いでいるのだ
と知ることが、どれほどの安堵を
もたらしたか。
それは、そのように理屈を超えた
計り知れない不思議な力なのでした。
今生、その眼差しに触れられたことは
恩寵でした。
そしてその恩寵も、
かつて私が祈ったことへの応答
なのでした。
祈りは確かに聞かれているし、
応えられるものであると、
我が身を通して知りました。
であるならば、
人生を善きものにしたければ、
善き祈りの種をたくさん蒔くことです。
自分が本当に本当に、
心底望んでいることを、
祈り求めることです。
刷り込まれた幸せ像の願望や、
体の良い下心満載の願望ではなく、
魂の奥から湧き上がってくるような
切なる願いを、祈り求めるように。
魂の奥底に響く願いは、
中途半端な願望とは、その質が
違っているのがわかると思います。
本当の願いでなければ、
そういう質の響きはないんですね。
その願いや祈りが、
あの深遠な眼差しに触れて、
人生をある方向に導く力として
起動していきます。
あるいは、
私たちがそうした願いを抱くことさえも、
既にあの眼差しの意図の一部だった
のかもしれません。
いずれにせよ、
私たちが心底の祈りとともに
自身の人生を歩むとき、
導きは常に、私たちに道を示し、
私たちがそれに応えて歩む軌跡が
道となっていきます。
そのようにして行く歩みは、
自分が在るべき場所で、在るべき時に、
なすべきことをしているという
充実感と、調和した人生の感覚が
あるでしょう。
だから、他人の描いた地図を
歩んでいてはいけないのです。
自分で自身の本当の望みを知り、
心底祈り、自身の内側からやってくる
導きによって、道を開くのです。
それが唯一無二の、自身の人生であり、
神聖なる宇宙の叡智の現れ、
私たちの命の歩みなのです。