ものごとにはタイミングがあって、
動かそうとあらゆる手を尽くしても
どうにもならないときがあります。
一方で、始まってしまったら
一気にあれもこれもが動き出して、
ついていくのに必死というときも
あります。
私自身、今年1月に母が亡くなったのが
ものごとが一気に動き出したタイミング
だったのですが、
それまでにも、もう何年も前から
色々考えて、できることは
ギリギリのラインまでやってきては
いました。
そうして迎えた「その時」
だったわけですが、それでも
その潮流の激しかったこと。
物理的な仕事量も半端なかったですし、
精神的、肉体的にもどうにか崩れずに
自分を保つのも必死でしたね。
それまで、十数年かけて向き合い続け、
感情への対処の仕方を身に着けてきたことが
こういうときに本当に力になりました。
そして、自分を受け入れ、
自分とともに歩むという在り方を
していたが故に、
こういうピンチの時に周囲の人たちが
とても温かな心遣いをしてくださったこと、
本当に有難かったです。
自分が自身に対してどう接しているかが
鏡となって返って来るということが
わかっていると、自分の居る世界と
戦わなくて済みます。
自分一人があがいても、
どうにかできる範囲は限られている
と言うのは確かにあるけれど、
いざ、せき止められていたものが
外されたときに、どれだけ自分が
動ける状態で準備できているか、
見据えながら日々を過ごすことは
大事だと思います。
いつ何時、その時が来てもいいように。
主体的に自分の人生に向き合って、
どうしていきたいのか、そのために
動けること、働きかけるところがあるなら
手を尽くすように。
自分の人生を創造するということは、
自分の一方的な願望だけでできること
ではなく、人生ときちんと「対話」
することが大切です。
一方的に我を通そうとすると、
人生は様々なところで噛み合わなく
なっていきます。
他人との対話もそうだけれど、
自分との対話、導きとの対話。
様々なレベルの対話がありますが、
基本的にはどれもスタンスは同じです。
自分と深く対話できるなら、
他人とも導きとも深く対話し、
意志疎通ができて、信頼とともに
良い関係性から温かなストーリーが
生まれてくるでしょう。
自分自身の声も聞かず、
尊厳を踏みにじっているのなら、
他人からも同じようにされるだろうし、
導きの大切なメッセージも受け取れず、
歩みは困難なものになるでしょう。
そういう状況を体験したい段階の
魂もあるのだろうけれど、こじらせずに
本道に戻れると良いですね。
いざというときのために、
物理的に備えておくことも大事だけれど、
本質的には、その状況に対応できる
自分でいることが何よりです。
いざというときの兆しは、
日常のそこかしこにあるはずです。
それにどれだけ気付き、
応答できているのか。
こんなにはっきりとサインが出ているのに、
まだ何でもないようにスルーしてしまう
感性の眠っている人も多いです。
今大丈夫だから、まだ平気、
ではないんですね。
よくよく目を覚ましているように。