どう抗っても、
なるようにしかならない、
ということがあると思います。
世の中には掃いて捨てるほど
開運ツールや成功メソッドが
溢れているけれど、
あらゆる手法を試してもなお、
その時の自分にはどうにもできずに、
お手上げ、というときが確かに
ありますね。
とは言え、人生が、あるいは魂の旅路が
そこで終わりということはなくて、
それでも何かしら「その次」がやってくる。
今まで、人生は自分の力で
どうにかしなければ進まないものだと
信じていたのに、
気づいたら、自分がどうにかしなくても
やってくる「次」がある。
それが気に入るとか気に入らないとか、
そうなったらもうそういう次元ではなく、
人生は別の力によって運ばれているのだと
知る他ありません。
確かに努力は大事だし、
その意義を否定するものではないけれど、
ツールやメソッドにのめり込んでいる内は、
わからないことがあるのではないかな、
という気がしています。
人生は、
もっと別のレイヤーの力が働いている
ということを抜きにして、願望実現とか
成功論を語ることはできないのでは
ないでしょうか。
古今東西、そ
れについて説いた聖典や教えは
数多あれど、最終的には、
その概念すら落としていくのが
この道です。
教えは大事だけれど、
後生大事にしがみつくもの
ではないわけで、
しがみついてしまった途端に、
教えの矛盾に取り込まれて
しまいます。
何のための教えで、
何のためにそれをするのか。
最初の目的が失われて、
そのコミュニティでの地位を確保するため
になったり、教えを守ること自体が
目的になったり。
人間社会の泥臭さに嫌気がさして、
それに背を向けて歩んできたはずが、
気が付けばその泥臭さの最も深いところに
はまり込んでもがいていた、なんてことは
良くある話。
結局、本当に受け取り昇華させないと
いけないものは、如何に避けて逃げようとも、
差し戻されてくるだけです。
だから、人生に今何が起こっていても、
それは必要だから起こっているだけで、
用が済めば、後腐れなく去っていきます。
ただ、
人生のその「用」というものが済むように
私たち自身が向き合い応答すれば
いいだけです。
人生の呼びかけを、
どうキャッチし、応答できるか。
人生のもっと早い時期にそれを知って
行動できていたら、という人は多いけれど、
既に人生は、そういう時代からずっと、
呼びかけ続けていたと思います。
でも、聞かなかった、というか、
聞けなかった。
それもまた、どう頑張っても
避けられなかった必然かもしれないし、
避けられたけれど、選ばなかった選択
なのかもしれません。
たとえその時代、そのタイミングで
応答したとしても、多分今と同じようには
解釈しなかっただろうし、別の応答の仕方をして、
取りこぼしていたかもしれません。
その時代に応答できたら良かったのか、
今気づけた方が良かったのかは、
誰にもわからないでしょう。
今まで応答できなかったからこそ
避けられた難というのもあるかも
しれませんしね。
今、人生からの呼びかけに気づき、
それに対して誠実に自分を開いて
丁寧に応答できる自分であるなら、
自身の内側から明かされていくものに対して、
密度高く受け取っていかれますように。
最高最善というのは、
諦めを納得させるフワフワした呪文ではなく、
まさに今ここが、神聖なフィールドであると
確かに知る呪文なのです。