神の愛

23日の夜にレナードの清里リトリートから帰ってきて、じっくりと余韻を味わっています。毎回参加していても、その都度違った気づきと学び、そして宿題をもらって帰って来るのが、私にとってはかけがえのない機会となっています。

そして、そこに参加されている方々、新しい出会いはもちろんのこと、特に何年も前からともにレナードの教えを学んでいる方たちにお会いするのは、私の中では特別な意味合いを持っているのだな、ということを今回改めて感じました。

多分、他の方も同じように感じていらっしゃる方は多いのではないかと思います。というのは、決して楽なことばかりではないこの教えを真摯に実践されている方々は、教えの素晴らしさも道の険しさも良く分かっているので、互いに多くを語らなくても、プレゼンスという共通の認識の上で通じ合うものがあるような気がするからです。

私にはそうした皆さんが、それぞれのフィールドの上で勇敢に戦う戦士のように見えます。

そして今回のリトリートでは、私の中に埋もれていた胸をえぐられるような感情がたくさん浮上し、解放されました。

4日間のリトリート中、3日が終わった段階で、私は自身のプレゼンスがなかなか深まっていないことに焦りを感じていました。

とてもコミットして参加したはずだったのに、周囲の方々がとても深いプレゼンスを体験されている様子を見るにつけ、一体私はこれまで何をして来たんだろうと情けなく思えて仕方ありませんでした。

そうして迎えた最終日に、私はいかなるものをも受け止めることを心の中でコミットして、レナードにガイダンスを求めました。すると、彼は私の中に在る、彼と神への憎しみを浮上させました。これまでにも繰り返し取り組んできたテーマでしたが、まだ憎しみは深く私の心に残っていたのです。

振り返ってみれば、これまでのリトリートや、それ以前に行われていた週末ワークショップの時代から、彼は何度も私の中のこの憎しみを浮上させようとしてきていました。

みんなの前で極めて厳しい言葉を浴びせられたことも一度ならずあったし、他の人には容易に与えられるものが、私には決して与えられないと感じたことも多々ありました。

そのようにされても、私の中で、彼への信頼が揺らぐことは一度もありませんでしたが、彼もまた、その姿勢がブレたことは一度もありませんでした。

彼は自分が相手から好かれようが憎まれようが、そんなところには微塵も関心がなく、あるのはただその人の魂の目覚めのみです。

彼はリトリートで、「私を憎みなさい」と言いました。埋もれた憎しみは健全ではありません。だから浮上させ、表現されなければなりません。

たとえそうであったとしても、「私を憎みなさい」という言葉は、普通の人がそうやすやすと言える言葉ではないでしょう。全く動じることもなく、そう言えるレナードはやはりすごいな、とどこかで感心しながら、私は自分の中の憎しみを浮上させました。

その瞬間から、待っていたかのように胸をえぐるような痛みが深く、胸やみぞおちから下腹部へと降りて行くのが分かりました。と同時に体が震え、涙がとめどなく流れてきました。

特に神への憎しみを感じるとき、私の中でそれはすぐにどうしようもない虚しさに変化していきます。私がどんなに憎もうが嘆こうが叫ぼうが、神は何の痛みも感じない。そのことに深い虚しさと無力感を感じるのです。

これまでは、これが出てくると途中でそのストーリーを信じてしまって、途中で止めていましたが、このときはこれもそのまま感じれば良かったのか、と気づくことができたので、湧き上がるがままに虚しさを感じて行きました。

憎しみと虚しさと無力感、悲しみに打ちひしがれながら、心の中でずっと「痛い、痛い、痛い」とつぶやいていました。私の魂はこれを受け止めたくなくて、もう何百年、何千年も逃げ続けてきたのでしょう。

けれど、今の私はこれだけのものが出てきても、逃げることなく受け止めることができます。やっと、このタイミングで準備ができたのでした。

これまで私は、レナードから「あなたは準備ができていない」と言われたことが何度もあったのですが、その時私は、何をどう準備すればいいのかさっぱりわかりませんでした。自分なりに準備して参加しているはずなのに、その言葉は心外だったし、かと言ってその準備についてそれ以上語られることはありませんでした。

だから私は暗中模索するように、その時自分ができることをどうにかしてやる、ということをコツコツ積み重ねて来るしかなかったのです。けれどそれがようやくこのタイミングで実を結んだということのようです。

あるヨギの自叙伝」の中で、ヨガナンダがグルのシュリ・ユクテスワの余りにも厳しい指導を、麻酔無しで歯を抜かれるがごとく、というような表現をしていたと記憶していますが(正確な表現ではなかったかもしれません)、グルの指導は、時にエゴにとってはそれほどまでに熾烈なものになり得るのです。

けれど、それはグルのエゴから来るものではなく、完全に恩寵です。

今、こうして長年の彼の厳しい態度の意味を理解するにつけ、そこに計り知れない愛と恩寵を思わずにはいられません。

神の愛は、決して私たちが望むような形ばかりで表れるわけではないし、一見正反対と思えるような厳しい姿でやってくることもあります。その計らいに私たちが気づけるかどうかは、ひとえに私たちがどれだけ実践的な努力をしたか。そして、魂が成熟したかにかかっています。

今回のリトリートは、その最中よりも終わってからの方がジワジワとプレゼンスが深まっているように感じます。憎しみの解放はまだ続いていて、どこまで続くのかと思えるほどに後から後から湧き出してきます。

けれど、終わりを思うことなく、出るままに出させてあげようと思います。そして噴出する恨みの中でも、不思議と静寂のスペースが広がっているのがはっきりと感じられます。これは今までになかった感覚かもしれません。

プレゼンスの種は、私の中でしっかりと育ってくれていた。そう感じた瞬間でした。

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