何事も、段階が進むと、
今のやり方が全然通用しなくなる
ということがあります。
それまでは、
ある程度いつものやり方で
何とかなっていたのに、それが
突然どうにもならなくなる
という現実に、焦りや不安を感じて、
ひどく動揺してしまったり。。。
けれども、
それは今までやって来たことが
全く間違いだったとか無駄だった
ということではなくて、
その積み重ねがあったからこそ、
ぶち当たる壁なのだと思います。
たとえば、
小学生の遠足でも行くような
ちょっとした山に余裕で登れるから
と言って、その実力で上級者向けの山に
気軽に登れるわけではありません。
それなりの体力や技術、装備が必要です。
また、山に対する心構えも、
相当に違ってきますよね。
深まるほどに、その段階で要求される
様々な要素の質と内容が、
より高度なものになってくるからです。
そういう世界を志すなら、
自分でここから何が必要なのかを問い、
応えていくような意識が必要です。
誰かから言われたからやるとか、
与えられた課題をクリアすればいい
というような意識では深まりません。
在り方のベースである心構えは、
言われたからできるようなもの
ではないからです。
自分で気づいていかねばなりません。
気づかなければ、そこまでの器
なのです。
これからエベレストに上ろうとする人が、
必要な持ち物は何ですか?自分は
何をすればいいでしょう?と、
一から教えなければいけないとしたら、
この人大丈夫かな?そもそも無理でしょ、
と判断されるでしょう。
誰しも、最初の一歩はあるわけで、
知らなかったり未熟だったりするのが
悪いというわけではありません。
ただ、
どの段階においても見られているのは、
その人の在り様、心構えではないかな、
と思います。
そこができている人は、
教えられなくても自分で学んでいくし、
自分で深め、展開させていきます。
けれども、いつでもどこでも
慢心の罠はあるので、道が外れれば、
有形無形のお知らせは来ます。
とは言え、慢心が過ぎれば
そのお知らせにも気づけず、
痛い目を見てストップがかかるまで
突っ込んでいくでしょう。
そうした歩みの中で、私たちは
何事かをそれぞれに体験していきます。
同じ出来事も、心構えひとつで
至上の宝にもなれば、最悪の汚物
にもなり得ます。
駄物だと思っていたものが、
実は心を込めて贈られた宝なのだと
後から気づくこともあるでしょうし、
宝だと思っていたものが、
見てくれだけのスカスカの偽物だった
ということもあるでしょう。
正解は一つではありません。
自分のその時の在り様の深さ、
段階によって、見えてくる景色は
違うのです。
よく、昔読んだ本、見た映画など、
改めてまた読んだり見たりしたら、
受け取るものが全然違った
ということと同じです。
段階が深まるほどに、
表面的な辻褄合わせはあぶりだされ、
通用しなくなります。
自分自身に嘘はつけなくなるし、
誤魔化していたところは破綻し、
修正を求められます。
そうして自分に向き合う中で、
自身の純度が上がっていくのは、
必然でしょう。
誰かが言ったからそうなのではなく、
自分にとってそれがどういう意味を
持つのか、自分の言葉で
答えられなければ、その歩みはまだ
借り物なのです。
自分自身の、本物の歩みを
深めて行きましょう。