人間社会の中で生きていれば、
様々な義理や人情のしがらみに
がんじがらめになって、身動きが
取れなくなることがあるでしょう。
世間的には人に親切であるべきだとか、
和を乱さないようにとか、
他人を不快にさせないように
振舞うのが良いと、幼いころから
言われて育った方も多いと思います。
善良な日本人の気遣いやおもてなしは、
そういう教えの土台の上に成り立っている
ところ、ありますよね。
それはとても素晴らしい美徳の一つ
だと私も思いますが、そうした表面的な
形の前に、踏まえておくべき視点というのが
欠落した状態で、押し付けられている
ところもあるように思います。
みんなと仲良くしたいのに、
本音のところでは苦手な人もいるし、
どうにも肚に据えかねる扱いをされて
怒りを抑圧していることもあるし、
色々不満や違和感はあるのに
それを表現するのはいけないこと、
自分がおかしいのではないのか、
我慢できな自分がいけないのでは、
等と思ってしまうのですね。
そうやって行き場を失った
自分の気持ちは、一体どうしたら
良いのでしょう。
そんなものは、あってはいけないもので、
永遠に無いことにしていなければ
いけないものなのでしょうか。
本当は、そうではないんですよね。
どんな気持ちも、
存在している権利があるし、
表現されるべき権利があります。
ただし、適切な方法でという但し書きは
つきますけれどね。
どんな気持ちも在っていい。
悪いわけじゃないんです。
だから、自分の気持ちをまずは
否定するのではなく、
在るがまま、受け止めてください。
そのうえで、どうするか、ですね。
あなたのその気持ちは、
次にあなたがどう振舞うべきかを
教えてくれています。
されたことが嫌なのなら、
それは嫌です、そんな風にしないでください、
と伝える必要があるし、
伝えても相手が応じてくれないのなら、
そこに居るべきではないという
サインです。
それを、ニコニコ笑って
何でもない風にしていたら、
相手はあなたがそれを喜んでいる、
そういうのが好きな人なんだと
勘違いするでしょう。
あるいは、そんな風にしても
怒らないから、どんな扱いをしても
構わない人なんだと思うでしょう。
自分の尊厳を守るために、
時に怒ることが必要な時もあります。
怒りをいけないものだと
端から拒絶する人はいるけれど、
神仏でも畏怖相の存在があるように、
神聖な怒りというのもあるのです。
自分が踏みにじられることを
ニコニコして受け入れているのは、
健全ではないですね。
色々な状況があるので、
一概にどうするのが正解とは
言えないけれど、
不健全に自分を差し出して
縁をつないだところで、
その縁があなたを幸せで豊かに
することはありません。
受け入れて良いこと、
断固として拒絶すべきことを
しっかり見極めて行動されますように。
自分を偽るほどに、
本当は必要ではない有形無形のゴミを
自分の中に溜め込むことになります。
そうして、本当に大切なものが
何なのかわからなくなって、
混乱していくのです。
切るべきもの、捨てるべきものを
捨てられないのはなぜなのか。
その部分に、
肚を括ることが必要な場面もありますね。
断捨離には、この自分で生きていく、
という肚の力が結構要ります。
でも、だからこそ
自分自身の純度が上がっていきます。
自分を混乱させるような要素を
極力手離して、本当に自分を生かすもの
のためのスペースを空けておくように。
通すべき筋を通すために、
自分軸をどこに立てるのか、
自身のハートと良く対話なさってください。