生きてる人間にせよ、
肉体を卒業した御霊にせよ、
自分自身の命の道を生きないで、
誰かの人生を通して自分の願いを
実現させようとするケースがあります。
生きている人間の場合は、
たとえば子供への過干渉とか、
子供を通して自分が実現できなかった夢を
実現しようとする親というケースが
これに当たります。
肉体を卒業した御霊の場合は、
叶えられなかった願いに執着して、
誰か別の人の体の中に入り込んで
その人の思考をコントロールして、
その方向に行動を誘導していたりします。
いずれのケースでも、
自分本来の命を生きていないという面では
共通していて、道を外しています。
どれだけ、誰かの人生に干渉し、
コントロールして望みを叶えたとしても、
それは所詮、その存在自身の人生
ではありません。
故に、真にその存在自体が
満たされるということはないでしょう。
ではなぜ、そうした存在たちは
自分自身を生きようとしないのか。
それは、自分を生きること自体が、
辛くて、受け入れたくはないのでしょう。
受け入れ難い現実から逃避して、
他人の人生に干渉しているわけです。
色々な理由があると思いますが、
自分から逃げている限りは、
満たされることはありません。
なぜなら、真に満たされたその感覚は、
自分自身を通して感じるものだからです。
だから、自分をお留守にして、
どうして満たされることがありましょう。
外野から、あれこれ指図して
コントロールしている方が楽です。
当事者として、様々に悩み、受け止め、
昇華させることの方がどれだけ
大変でしょうか。
手っ取り早く形だけの他人の成果を
掠め取ることの虚しさを、知ることです。
他者に介入し、コントロールしたがる人、
過干渉の傾向がある方は、おそらく
ほとんどが自分自身がお留守の在り方を
していると思います。
本当に自分自身を夢中で生きて、
充実している人が、過干渉になるでしょうか。
わざわざ他者にちょっかいを出す暇や
興味など、そもそもないでしょう。
誰かに干渉したくて仕方がないのなら、
それと同じくらいの関心を自分自身に
向けるように。
その辛さ自体、本当はその人自身が
対処すべきものの在り処を教えてくれている
サインです。
本人がそれから意識を逸らし続ける限り、
虚しさと孤独感、淋しさは癒えることは
ありません。
なぜなら、それらはみな、
自分が自身に対してしているその態度こそが
原因だからです。
改めるべきは、
その自己への無関心、逃避癖です。
過干渉、コントロールされやすい人も、
ついついしてしまいがちな人も、
どちらも同じ要素を持っています。
互いに不健全な在り方で引き合っている
わけですが、気づいた側から
在り方を改めたなら、関係性は
変化して行きます。
相手が変わるのを待つとか
相手をコントロールするよりも、
当事者意識を持って自分を生きることです。