諦めという忘却の彼方に沈めた本当の願い
自分の天命がわからない、という方は、まだそれを知るタイミングに来ていないか、どこかで本当に自分がなすべきことから逃げているのかもしれません。
偽りの自分を脱ぎ捨てて、本当の「私」に帰る場所
自分の天命がわからない、という方は、まだそれを知るタイミングに来ていないか、どこかで本当に自分がなすべきことから逃げているのかもしれません。
それは自分だけの、とてもプライベートな体験であり、誰かや何かによって証明される必要すらない、確かにそれとわかる証です。こういう証を重ねながら
自身の真実に戻っていきたいと願う人は多いですが、ではこの辛い瞬間に戻っていくことを決断できる人は、どのくらいいるでしょうか。誰しも、最初から
どんな体験がやってきたとしても、瞬間瞬間、その体験をしかと生きて、自分自身を通過させていく。神の肉体である今この瞬間の世界を、深く愛で、慈し
優しく、心地よいものばかりが愛なのではない。時に、自分自身が崩壊してしまうような体験の中から、新たに、より大きな器に生まれ変わっている自分を
自身の人生のあらゆる側面を受け取らねば、自分自身にも、本質なる神にも近づくことはないのでしょう。けれど、私たちは自身の人生にやって来る様々な
どれだけ言葉を連ねても、「在り方」を通してしか伝わらないものがあります。その根本の在り方を、もっともっと深く、太くしていきたいのです。それに
人生を行くとき、ある部分では、ガイドのサポートは必要です。けれど、ガイドがあなたの人生のすべてをやってくれるわけではありません。あなた自身が
プロセスだと思えるものが、本当は目的地そのものだということの真意がわかっていないと、いつまでも通過点を生きることしかできません。Carpe
逃げていたい人にとっては、プレゼンスに在って毎瞬差し出されるものに応答するという在り方は、多分とてもキツイものだろうと思います。でも、深く自