意味や目的を越えて

今日は修練、修養ということについて
思うところを書いてみたいと思います。

私みたいな半端者がこういうことを語るのも
非常におこがましいのですが、きっと
後で読み返してすご~く恥ずかしくなったり
するんだろうという思いもある中で、
未熟な自分なりに今の考えを記してみたい
と思ったのでした。

最初はみんな、修練をするのは
何かしらうまくなりたい、カッコ良くなりたい、
人生をより良く生きたいという理想を追究したり
ニーズを満たすために始めるのだろうと思います。

その内に、ある程度の力がついてきて、
形もそれなりにできてきた、となると、
より様々な技量を磨き、深めていく
段階に入っていきます。

ここまで来るまでにも、
色々自分自身に向き合って、未熟なところ、
変に歪んで癖のついたところなど
その人なりに葛藤しながら取り組んで
来ていることでしょう。

そうして、冷静に自身の力の限界を見極め、
さらに深く高いレベルの在り方を求めて
様々な探求をしていきます。

もっと強くなりたい、高みを極めたい、
至高の領域を見たい、とか。。。

もっともっとと自分を駆り立てる思いに
無我夢中で鍛錬してきて、ときには
そういう思いを魔に引っかけられて、
いわゆる魔境みたいなところに
堕ちていくこともあったり
するのかもしれません。

そういうのは、善悪の基準とか
レベル(何のレベルか知らんけど)の高い低い
という人間目線の基準から言ったら、
すごく悪いことで退化だとジャッジされる
ことなんだと思いますが、

どんな体験も、体験それ自体に優劣とかは
ないのだろうと思います。

もちろん、苦しいのとか汚いのとかは
嫌は嫌ですけれどね、結局のところ、
その場所で、そういう自分でいる
という体験が在るだけなんだろうと
思うのです。

つまり、そういう体験に、
自分の価値観からどんなラベルを貼るのか
というだけの話。

その価値観から受け入れがたい
自分の姿になった時に、
人はものすごくショックを受けたり
挫折を経験したりして
その体験自体を受け取らず、
否定してしまうことがあります。

そうすると、その人は
自分が否定したものに囚われて、
そこから抜け出せなくなります。

いつもお伝えしている、
拒絶したものは繰り返し差し戻される
という法則が働くからです。

魔境から脱する道を開くのも、
ある種のチャレンジなのだと個人的には
思っているので、

どんな体験の結果も、
引き受けて生きることが、
最も人生の深淵な神秘に至る
道だと思います。

そんな風にしている内に、
今度はだんだんと、自分を駆り立てる思いが
落ちていく。

こうなりたい、これが欲しい、こう在るべき
という欲が薄くなっていく。

それは、諦めとか抑圧とか
そういうものではなく、
ただ、今このようにして在る自分が
受け入れられて、苦しくなくなっていくから。

そして、そういうところから、
目的意識を持ってもがき、ひたすら
鍛錬していた頃には見えてこなかったものが
見えてくるようになります。

目的意識を持つことはそれ自体、
悪いことではありませんが、
意識のフォーカスを当てるということは、
フォーカスした以外のところが見えなくなる
という反作用もあって、

そういうことが、例えば
その人の魂が見せたいもの、受け取らせたいものと、
その人の求めているものがすれ違ってしまう
原因になったりするのです。

これは、
神仏などの存在に向き合うときもそうだし、
師と弟子、友人関係などあらゆる関係性の中で、
こういうすれ違いが起こり得ます。

とても一生懸命やっているのだけれど、
でも、答えはそこじゃないんだよね、
という感じで、

傍から見たらこういうのが一目瞭然に
わかるときもあるのですが、渦中の本人は
目的に固執するほどますます見えなくなる
ということがしばしばあります。

でも、そういう段階も、
やり切らないと抜けられないもの。

押してもダメ、引いてもダメ、
何もしなくてもダメだし、
委ねても放り投げてもダメ、
というにっちもさっちもいかない
極限の葛藤を通過したときに、

何かがふっと落ちて、
何だかいつの間にか抜けてた、
みたいなプロセスも、
あるんだろうな、と思うのです。

こういうところを器用に通過する
というのは多分できなくて、
そのいかなる器用さすら通用しない
経験をする必要があるんだろう
と思います。

まぁ、苦しいですよね。

その苦しみの中で、焼かれ、
変容していく何かがあるんですね。

それは、多分人間目線のどんな意味も、
どんな目的も見いだせない、
苦しみの炎です。

目的や意味によって自分を支えようとする
そういう心の動きさえも拒絶する
イニシエーションみたいなものかな、
と思っています。

そういうところを通過すると、
もうその人はかつてのように目的によって
人生を駆り立てることはほぼなくなります。

そのようにして生きる理由や動機が
なくなっているからです。

すると、修練や修養の意味合いも、
全く違ったものになっているでしょう。

自分がどの段階にいるにせよ、
挫折しても、絶望しても、
歩み続けるのみです。

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