「自分が悪者になりたくない」というズルさ
よく、相手が傷つくのを見るのが嫌だから自分が我慢するというケースを見かけますが、一見相手のためのようでいて、これは完全に自分本位の在り方です
よく、相手が傷つくのを見るのが嫌だから自分が我慢するというケースを見かけますが、一見相手のためのようでいて、これは完全に自分本位の在り方です
誰しもが人生で一度は抱く問いの答えはしばしば人生で最も避けているものの中にヒントがあったりします。楽しいこともあれば、しんどいこともあるし、
あなたのせいで、私はこんなに辛い目に遭っているんだ、と思うとき、あなたは自身の人生に対して、自ら無力な被害者になっています。自身の感情の責任
レナードは、怒りは自身の本来のパワーを取り戻す助けをしてくれると、表現は少し違いますがそんなようなことを言っていました。怒りはそれ自体、決し
人は、痛いところを突かれたとき、その痛みに驚き戸惑いながら、普通以上に激しく反応します。抵抗から、相手を批判したり、逆ギレしたり、バッサリを
「良くない」側面を否定し、変えることで幸せになろうとするやり方もまだまだ見かけますが、その試みはうまくいきません。徹底的に拒絶するほど、自分
問題を認識したとき、それに対処できないケースのほとんどは、感情的なわだかまりで頭も体も機能不全の状態になってしまうからだと私は思います。人の
自分の中に無限の可能性の井戸があっても、そこから水をくむ方法を知らなければ、その可能性は無いに等しいのです。可能性の井戸からどうやったら水が
願った時点で、天は私たちの願いを叶えるために動き出しているけれど、いかんせん、受け取る体勢がなってないのは残念なことです。私たちがこの調和の
「~のせい」にしている責任を全て引き戻さない限り、自分自身への不信も終わらないでしょう。責任転嫁している自分にどこまで気づけるか。気づく力、